『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

カリスマ信仰ではない

 

念仏とは自己を発見することである(金子大榮)

真宗教団連合 法語カレンダー2013表紙

 

浄土真宗は、カリスマ信仰とは違うのだと。

カリスマ信仰というのは、立派な人がいて、その人の言動を尊び、真似したり、価値観をゆだねたりするんだろう。

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親鸞がどんな生涯をおくったかというのは、大正時代に妻の「恵心尼消息」がでてくるまでわからなかったとか。それにしたって断片的。親鸞不在説もあったくらいで。

そんな親鸞聖人の言葉が続いてきたということは、逆にいようがいまいがよかったということなんだろうな。

その言葉が繋がれて、繋がれてきたというのは、言葉や思想が必要とされてきたということなのだと思う。そこに生きた人たちがいた、生きることを許された。

真宗カレンダーの表紙には「念仏とは自己を発見することである(金子大榮)」と書かれている。その自己は、親鸞聖人の言葉で言うと、

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。(「教行信証」信巻)

【現代語訳】なんと悲しいことか。この愚禿釈親鸞は果てもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷って、必ず仏となる人に数えられることを喜ぼうともせず、仏のさとりに近づくことをうれしいとも思わないでいることを恥じ、こころを痛めめなくてはならないのです。『親鸞いまを生きる』(本田弘之他・朝日新書)

機法は一体、

竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。(「教行信証」教巻)

悲しい私に、如来大悲の呼びかけがある。