『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

力強い生活というのははっきりしてもしなくてもいいということ

http://kouhei1112.wordpress.com/2007/05/04/%e3%80%8e%e3%81%9d%e3%82%8c%e3%81%a7%e3%81%84%e3%81%84%e3%81%8c%e3%82%84%e3%80%8f/

「浄土真宗のこと」より引用:

人は褒められてさえおれば
 よい様に思うとるが
 それは傷つかん方の足を
 医者に見せに行く様なもの
 傷ついた方の
 足を出せと言うがや
 出せば我が身がひっ込む
 我が身がひっ込めば
 娑婆に こんなきついものはない
 それをお浄土の世界という 

坂木恵定

この妙好人の言葉がずっと気になっている。

 我が身がひっ込めば
 娑婆に こんなきついものはない
 それをお浄土の世界という

「きつい」が自分の中ではっきりしなかった。もちろん私たちがいう「キツイ」とは違う。ぐり♪さんが書かれているように「強い」ということなのだけれど。

おじいちゃんの言葉が重なる。

一念に弥陀をたのみたてまつる行者には
無上大利の功徳を与えたもう ほやろ
こころを和讃に聖人の曰く
五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の   功徳は行者の身にみてり
あのね、お念仏が申されるということはね、おばあちゃん
これ以上の幸せはないのでございます
仏のおん目からご覧に言うとわが身しらず
けれども今日は真実の教えにあわしてもろうて
いよいよ ながの迷いの根切りができて
無量光明土にいたらしめらるるところの 力強い生活をさせてもらいましょう

繋がってるように思えてならないのだけど、はっきりしない。

と言った私にこたえてくれた。

「これさえあればどんなことがあっても大丈夫」ということをたてようとする、求めるが、「力強い生活」というのは、そういうことがはっきりしてもしなくてもいいということ。はっきりしてもしなくてもいい力強い生活なんです。

と聞いた気がする。そうだったよそうだったよ、本当に忘れていた。しかも逆に思っていた。「念仏(の信心)さえあればどんなことがあっても大丈夫」という勢いだった。危ない危ない。

そして佐野さんは、「無上大利」について、珍しくガーっといった。大経下巻だとか、「無上大利」とか、弥勒付属、行の一念、願成就、信の一念、行、浄土真実の行、17願、標挙の文、18願、選択集は浄土往生の行ではない・・・とにかくサッパリわからなくて面食らったけど、大変重要なところらしい。じいちゃんさらーっとほんな難しいことを言っていたのだな、ということだけはわかった。

もうひとつわからない、娑婆即寂光浄土。いやわからないのでない、うなづくことができないだけ。

聞法会にて 2013.3.28.

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http://kondan.9syu.net/buddhism/index.htm?fname=.%2F090601.txt&PHPSESSID=d984cfd1651e84a4f06ed7fc626084b0