『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「たすかる」とはどういうことか

『慙愧の御遠忌』平野修 同朋教学研修会発行より

「末代無智(まつだいむち)の在家止住(ざいけしじゅう)の男女(なんにょ)たらんともがら」御文五帖目一通

 われわれは 生きている根本の 動機のところで、 自分を助け出したい、 ということで生きております。 その根本動機に促されまして、 何かを たのみとして自分を助けようとする心を生きていく。 しかしそのことが原理的に不可能だということを 教えているのが 「念仏せよ」 という仰せの意義である。 なぜ我々に「弥陀をたのめ」と 仏が仰せになられたか。 たのんだから 助かるということを言うためではなかった。 「弥陀をたのめ」と仰せになられたその意味は、 我が力で 我が身をたすけていくということは原理的に不可能であるということに、 気付かせんがためであった ということです。

 では、その原理的に不可能というのは、 具体的にどんな生き方をしているものであるかと言えば、 「末代無智の、在家止住の 男女たらんともがら」は 欲を認めながら欲を離れようとしても、 それは原理的に出来ない。 これが「在家止住」です。 そしてすでに性ということを抱え込んでいる身を生きて、 愛するとか憎むとか ということを離れようと考えることが、すでに原理的に不可能である。 そういう自分自身に暗い心、 これが「無智」です。 そして 仏法を仏法だとも 了解出来ない。 我が力で我が身を助けるということが可能であれば、 間に合うものなら何でもいい、 用いていこうとするような状況、それを「末代無智」という。

 「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」は、そういうものであるから、 原理的に我が身を助けるということが出来ない。 「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」であるから、 いよいよ 自分を助けようとするけれども 同じ理由によって自分を助けることが出来ない。 つまり 我が力で我が身を助け遂ぐることは 全く出来ない。 そういう 自分をここに生きていたということに目覚めさせるということが 「念仏せよ」 という仰せのいわれである。
 
 そこに我が身を「愚禿」というふうに 了解出来る 我が身との出会いというものがある。自分がかようなものであったかという自分に目を覚ますということが起こってきた。親鸞なら「愚禿」というのですけれども、 蓮如はそれを丁寧に 「末代無智の在家止住の男女のいずれかではないか」 というふうに 自分を表現されます。 この者は、こういうものであるからこそ 自分をどうかしようとするけれども、 こういうものであればこそ、 また自分を助けることが出来ない。 そうゆう 自分自身を生きているということに目を覚ます。 これが助かった という意味である。 ここに「念仏もうせ」 「南無阿弥陀仏 と弥陀たのめ」と、こう言われる、この事柄が実に我が身に目が覚めるということであった。(平野先生の言葉は続く)