永平寺いーじ その1 からの続き
次に、【山門】へ
諸吉祥中最無上 もろもろの吉祥の中で最無上
諸仏倶来入此処 諸仏倶(とも)にこのところに来入する
是故此地最吉祥 これ故この地最吉祥
・・・順路に問題がないだろうか。
仏教の守護神である四天王
納骨や、瓦志納などの受付
売店や休憩場所もあります
撮影していたら、叱られました。「修行僧は撮影しないでください。」
はじめに言ってほしい。順路通り進んで、ここ最後に来たのよ。すみません。
仕事って、修行なのね。なるほどね。
僧侶って、修行僧なのかしら。僧侶イコール修行僧の感覚、無いよなー。浄土真宗は在家仏教だからね、修行というと、なにか特別なことのように思っている。
改めて、考えさせられました。
その後、【瑠璃聖宝閣】へ行きました。撮影禁止です。
薄暗くて落ち着いた空間が、とっても素敵でしたよ。
【永平寺川】
苔むしとる龍、いーじ
人に遇うということよって、(自分の)学んでいることの狭さが知るということがある。
一人で学ぶ人がおりますよ、僕の仲間でね、ずっと深いですよ。ふかーいけれども、その人自身が育っているかというと、極めて疑問を感じますね。学ぶということについて、一つの問題があります。
学びがどれだけひたむきであっても、どうしても乗り越えられんことがあります。クリアに出来んこと、問題があります。それは偏(かたよ)りですよ、それは個性なんですよね。その人の持ち味なんだけど偏りなんです。それは時に独善的に教えを受けとることになりうる。親鸞聖人もご自身を「偏頗(へんぱ)」ということをいった。偏頗というのは偏(かたよ)り、その人なりの受取りしか出来ないということ。単なる真面目さだけでは自分を固めていくということになりかねない。
そうなってくると、仏法は個人で学んでおりさえいればいいというわけにいかんのだね。常に自分の学びそのものを批判するものを持たなくてはだめでしょうね。学んでいくことだけで自分を固めていくということになりかねません。
仏法は個人で学んでおりさえいればいいというわけにいかんのですね。
学ぶ姿勢に問題があるわけです。気づきにくいです、これが。ここに「師友」が重要な役目を果たします。「師友」いい言葉やね、先生であり友達。敬意を持てるような相手。
だから「師友」という。友達いう言い方をあまりしませんよね。
ですから、「師友」が重要な役目を果たします。仏法は間違わないけれど、学んでいるものが間違わないということではない。間違う可能性をはらんでいる。2017.5.22 他教区交流研修会 伊藤元 師
と、いうようなことをおっしゃっていたことを想います。
単なる真面目さでは自分を固めていくことになりかねない
仏法は個人で学んでいくということになってはならない。
学びそのものを批判するもの、「師友」が重要な役目を果たします。
私の連れは「師友」なのであります。
学びの多い時間でした。
永平寺を後にして、グーグル先生に教えていただいて、素敵なカフェに寄りました。
https://tabelog.com/fukui/A1801/A180103/18004835/
「実は、ちょっと、申し訳ないが手伝ってほしいことがあるのです。」といって、師友に私が作成した学習会のチラシやポスターの袋詰を、やってもらいました。カフェ・チョットは、奥に畳の間と卓があり、袋詰作業ができる、ミラクルなお店でした。いいとこやったー、また行きます。ありがとうございました。