『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

【正信偈の教え】3 普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 

【原文】
普 放 無 量 無 辺 光
無 碍 無 対 光 炎 王
清 浄 歓 喜 智 慧 光
不 断 難 思 無 称 光
超 日 月 光 照 塵 刹
一 切 群 生 蒙 光 照

【読み方】
あまねく、無量(むりょう)・無辺光(むへんこう)、
無碍(むげ)・無対(むたい)・光炎王(こうえんのう)、
清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智(ち)慧(え)光(こう)、
不(ふ)断(だん)・難(なん)思(し)・無称光(むしょうこう)、
超(ちょう)日月光(にちがっこう)を放って、塵刹(じんせつ)を照らす。
一切の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る。
阿弥陀仏の別の呼び名
 ここには、阿弥陀仏智慧(ちえ)の徳が十二種の光として述べられています。これは、阿弥陀仏の別の呼び名として『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に述べられているものです。
このゆえに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。(聖典30頁)。
 阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩であられた時、すべての人びとを例外なく救いたいと願われて、四十八項目からなる誓願(せいがん)を発(おこ)されたのでした。法蔵菩薩は、この四十八の願いを実現するために、私どもの思(し)慮(りょ)の及ばない、はるかな時間をかけて、無量の徳行を積み重ねられたと説かれています。そして、そのような徳行が実を結んで、法蔵菩薩は仏に成(な)られたのです。それが阿弥陀仏なのです。
 つまり私は、この私を救いたいと願われた阿弥陀仏の願いが現にはたらいている状況のなかに生まれてきたのです。そして、その願いと、その願いによって放たれている智慧の光明(こうみょう)の輝きに包まれ、絶えず光に照らされながら、私はいま生きているのです。一切の衆生は、この光の輝きを蒙(こうむ)っているのです。智慧のはたらきを今受けていない衆生はいないのです。
・十二種の光の名
 さて、親鸞聖人は、『大無量寿経』によって、「正信偈」に、十二種の光の名を掲げておられるのですが、その最初は「無(む)量(りょう)光(こう)」です。これについて『和(わ)讃(さん)』に、「智慧の光明はかりなし 有(う)量(りょう)の諸相(しょそう)ことごとく 光暁(こうきょう)かぶ(む)らぬものはなし 真実明(しんじつみょう)に帰(き)命(みょう)せよ」と詠(うた)っておられます。阿弥陀仏智慧の光明は、量(はか)り知ることができないものであって、限りのある私たちの現実のありさまは、すべてこの光の輝きを蒙(こうむ)っているのだから、真実の光明である阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えておられるのです。
 第二は、「無(む)辺(へん)光(こう)」です。阿弥陀仏智慧の光明は、ここから先は行き届かないというような際(きわ)はない、ということです。これを『和讃』には、「解(げ)脱(だつ)の光輪(こうりん)きわもなし 光触(こうそく)かぶ(む)るものはみな 有無(うむ)をはなるとのべたまう 平等覚(びょうどうかく)に帰命せよ」と詠われています。私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際(へんざい)がなく、この光に触れることができるものは、みな自分がこだわっている誤った考えから離れることができるといわれているので、平等(びょうどう)普遍(ふへん)の智慧をそなえられた阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えられているのです。
 第三は、「無(む)碍(げ)光(こう)」です。何ものにも、さえぎられることがないのが阿弥陀仏智慧の光明です。『和讃』には、「光雲(こううん)無碍(むげ)如(にょ)虚(こ)空(くう) 一切の有碍(うげ)にさわりなし 光沢(こうたく)かぶ(む)らぬものぞなき 難思議(なんしぎ)を帰命せよ」と詠(うた)われています。光に満ちた雲のような阿弥陀仏智慧は、ちょうど大空をさまたげるものがないように、何ものにもさまたげられることなく、障害と思われるどのようなものであっても、阿弥陀仏智慧のはたらきには、何の障害にもならないので、光に満ちた雲の潤いを蒙らないものはないのだから、われわれの思(し)慮(りょ)では推(お)し量(はか)れない阿弥陀仏の徳を依り処にせよと、親鸞聖人は教えておられるのです。
 第四の「無(む)対(たい)光(こう)」は、対比するものがない光ということです。『和讃』に「清浄(しょうじょう)光明(こうみょう)ならびなし遇(ぐ)斯(し)光(こう)のゆえなれば一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ畢(ひっ)竟(きょう)依(え)を帰命(きみょう)せよ」と讃えられています。清らかな智慧の光のはたらきは、これに並ぶものはなく、この光に遇うことによって、身勝手な一切の行いから起こって自分自身を悩ませるこだわりの心が取り除かれるのだから、人生の最後の最後の依り処である阿弥陀仏を頼りにしなさいと教えられています。「畢」も「竟」も、終わりという意味です。私たちは目先の価値にとらわれて、あてにならない物事をあてにして、それを依り処にして生きています。本当に最後の最後に依り処になるものを確かめられたならば、これほど安らかで歓びに満ちた人生はないと教えられているのです。
 第五の光は、「光(こう)炎(えん)王(のう)」です。(『大無量寿経』では「焔(えん)王(のう)光(こう)」)です。「炎」は、私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いを焼き尽くすことをたとえたものです。阿弥陀仏智慧の光明は、無知の暗闇を照らし、暗闇を暗闇でなくしてしまうはたらきがあるのです。『和讃』には、「仏光(ぶっこう)照曜(しょうよう)最第一(さいだいいち) 光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり 三塗(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命(きみょう)せよ」と詠われています。阿弥陀仏智慧の光の輝きは最高であるので、阿弥陀仏を「光炎王仏」ともお呼びする。仏の智慧の光は、われらの迷いの暗闇を打ち開いてくださるのだから、そのお徳を誉め称えるにふさわしいお方として敬おうではないかと、述べられているのです。
 第六は、「清(しょう)浄(じょう)光(こう)」です。貪りに支配される私どもの心の汚(けが)れに気づかせ、心が清らかになるように、はたらきかけてくださる智慧の光です。本願の光は、他を超えて明るく輝き、ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれ、あらゆるこだわりから解き放たれるのです。
 第七は、「歓(かん)喜(ぎ)光(こう)」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏智慧の光は、怒りや憎しみの深い私どもの心を和らげてくださるので、私どもの心は喜びに変わるのです。阿弥陀仏の慈しみの光は、あらゆるところに向けられていて、この光のおよぶところでは、真実によって起こる喜びがあふれるといわれています。
 第八は、「智(ち)慧(え)光(こう)」です。私どもは、真実に暗く、愚かで無知そのものです。そのために悩まなければならないことが多いのです。しかも、自分が無知であることにも、実は無知なのです。阿弥陀仏智慧の輝きは、私どもに無知を知らせ、深い無知の闇を破ってくださるのです。
 第九の「不(ふ)断(だん)光(こう)」は、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏智慧(ちえ)の光明のことをいいます。阿弥陀仏智慧の光明は常に輝いて絶えることがないので、阿弥陀仏のことを「不断光仏」ともお呼びするのです。
 第十の「難(なん)思(し)光(こう)」は、凡夫(ぼんぶ)の思いによっては、到底量り知ることのできない阿弥陀仏智慧の光明のことです。阿弥陀仏智慧(ちえ)の輝きは、誰も思い量ることができないので、阿弥陀仏を「難思光仏」とお呼びするのです。
 第十一は、「無(む)称(しょう)光(こう)」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏智慧の輝きをいいます。阿弥陀仏の光明は、あらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びするのです。
 最後の第十二は、「超(ちょう)日(にち)月(がっ)光(こう)」です。阿弥陀仏智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられています。太陽の光は昼間に輝き、夜は照らしません。月の光は、夜は照らすけれども昼は輝きません。光のはたらきにかたよりがあるのです。さらに、どちらの光も、光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、かたよりがなく、しかも届かないところがないのです。
阿弥陀仏の光に照らされながら
 阿弥陀仏智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人は言っておられるのです。そして、その輝きを蒙(こうむ)っていない者は一人もいないと言っておられるのです。
 それなのに私は、そのことに気づこうともしていないようです。自分の思いにのみこだわって、しかも私は自分の思いを正当化し、あえて智慧の光明に背を向けているわけです。そのような私のことを悲しく思って、何とか私が目覚められるよう、親鸞聖人は、この偈(うた)によって教えてくださっていると思われるのです。
参考『正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

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