『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

自齎(じさい)まいり

昨日は坊守数人でちいさなランチ会があった。

毎日ジサイがあって休みが無くて大変そうです。心配してるんです。

若い坊守さんがだんなさんを心配していった。

坊さんだってお休みとって夫婦で旅行にでも行って気晴らししなくちゃいけないよ。月参りの日を一回だけずらしてもらったりかえってもらったり出来ない?私でよかったらお参りの代役するよ。

と話していた。日をかえてもらうとか休みにさせてほしいとか、なかなか言えないものだなぁ。かわいい坊守さんを見ながら彼女の口から自然にジサイという言葉が出てきたことが心地よかった。おばあちゃんやおじいちゃんがそう言っていたから。

数年前にあるご住職さんにいただいたメールをひっぱりだした。大事な大事なメール。

自齎(じさい)まいり〓私はこの言葉が大好き。月忌参り、ともいうがやはり「自齎」であろう。意味は「自分へのご褒美」阿弥陀さまから私へのご褒美・私から故人へのお経ではない。私が、読経をさせていただく縁を如来からたまわっている。
私は1日に 約10~12軒お参りさせてもらっている。朝7時頃からペタルを踏む。朝の光を受けながら、今日もかがやける命を生きられる。登校途中の子等が「おはようございます。」と声をかけてくれる。こんな私に声をかけてくれる子等がいる。お参りに行くと、誰より犬・が喜んで迎えてくれる。そこの家の人は留守でも、阿弥陀さま〔本尊〕が私を待ってていてくれる。読経は本尊との対話。そう思いながら経を読む。僧として経を読むのは、今日のいのちの讃歌。10~12軒回りながら、門徒とのつながりを通して、共にお念仏にお育てを受けているお礼の讃歌としての読経をさせていただく。全く如来からのご褒美である。ちなみに「自齎は、如来から自分へのご褒美である」とは、金沢の高光大船師の言葉 Mより