『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

仏法聞きたいと思えども、 仏法またよろこびがたし。

正信偈をよもう」源空章、聞き書きその三

弘経の大士・宗師等、

真実の教・無量寿経(大経)を弘(ひろ)めてくださった、如来の本願を説いてくださった、

曽我量深、「仏教の歴史は本願の歴史」すべて本願に基づいてとかれた教え。それが親鸞の仏教史観

大師は、龍樹・天親

宗師は、曇鸞・道悼・善導・源信源空

無辺の極濁悪を拯済したまう。

無辺の極濁悪というのは自覚。二種深信、深信自身。疑情を離れることができない。自分が正しい。考える、比べる。

自分は幸せだと思う人はいますか。

道俗時衆、

「道」は道を歩んでいる人、求めている人、仏道だけでない、いろんな道がある。道を求める人。

「俗」は世俗を離れることができない人。私は衣を着ているけれど、着ているがゆえに、もう少し欲しくてもくださいと言えない。蓬茨祖運先生が言っていた、「法事を一緒にいていいですか」と聞かれるがどうすればいいかと、「「困るんです」といえばいい、「お布施が半分になるから困るんです」と、言えんのでしょう」と、衣を着ているから言えないんです。だから極濁悪なんです。「本当はだめやけど、わかった」と言う。

「時衆」は、時代の人。同じ時代で方向を見失っている。

善導大師の「帰三宝偈」(「勧衆偈」)

道俗時衆等

各発無上心、(おのおの無上心を発せ(ども))

生死甚難厭、(しょうじじんなんねん、生死甚だ厭いがたく)
仏法復難欣。 ( ぶっぽうぶなんごん、仏法また欣(ねが)いがたし)

捨ててしまえばいいが、それが大好き、捨てがたい。仏法聞いてもよろこばない。もとめ難し。

欣求浄土(ごんくじょうど)厭離穢土(おんりえど)

というけれども、友人は「厭離浄土」と書に書いた。坊さん嫌い、浄土ねがわない。

全ての人たちは、いろんな悩みを持っている。

善導大師は「おのおの無上心を発せ」と、仏法よろこびがたいから、おのおの無上心を発せ、とよびかけた。

ところが親鸞聖人はここに「ドモ」をつけた。

おのおの無上心を発せドモ、

ドモをつけることによって、無上のこころをおこしても、仏法はよろこびがたい

本によって違うから確実とはいえないけれど、(ここが木越さんのすごいところで、何冊も文献にあたっている。書きとらなかったが、各文献の所在もご存知だった。「ドモ」がついていない西本願寺蔵のことも話されていた。真宗聖典では「ドモ」がつく。専修寺蔵による。)

仏法聞きたいと思えども、 仏法またよろこびがたし。

そういうもののために本願がある。

そのものに開かれてくる本願念仏。

念仏為先(ねんぶついせん) 、親鸞聖人は念仏為本(ねんぶついほん)

念仏を法然上人は「不回向」、こっちから申すのでない。親鸞はこれを如来大悲回向。親鸞聖人が教行信証の中で「選択本願念仏集」をひいていないというのは間違い。ずっとひいている。p189。

念仏成仏すべし。どちらかというと法然上人は念仏往生、念仏して極楽往生親鸞聖人は念仏成仏、仏になる。

中野良俊さんとアジャンタの石窟に行った。「法華経」一切衆生悉有仏性、仏性は如来の眼から見える。それを掘り起こしてくれたと、感激していた。

南無阿弥陀仏、でた時が成仏。如来と等しい。

(終り)