『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

虹と、勉強してきたことと、青空と(加筆訂正)

関東は記録的な豪雨で、各地で深刻な被害。茨城県常総市の鬼怒川の堤防が決壊し、救出活動が今でも続いている、大雨の峠は越えた、宮城県でも引き続き警戒が必要、台風17号の影響とニュースが告げている。

www.news24.jp

 

 

昨日(9/10)虹を見た。

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雲の間から青空も見えた。

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今日の石川は雨のちくもりのちときどき小雨のち晴れ 

金沢 尾山神社↓

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ハートの雲!

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ぞうさん? 

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かいじゅう?

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エンジェル?

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 久しぶりの青空に雲って、想像力が躍進

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被災している方々のためにも、明日も晴れて欲しい。 

 

9月9日10日と研修会で福井県へ行っていた。石川、富山、福井の、坊守(ざっくりいうと住職の配偶者)研修会。テーマは、現代(いま)を生きる、寺をひらく、私をひらく

講師からのテーマが、~唯一つ、わたしが変る~ だった。

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迷林は石川の天気のようにときどき真面目なので、スイッチ入れて一生懸命聞いた。

 

「經」と言ふは經なり。經能く緯を持ちて匹丈を成ずることを得て其の丈用有り。

聖全Ⅰp445 觀經四帖疏 玄義分

「観経疏(かんぎょうしょ)(観経四帖疏)」は善導大師が『観無量寿経』を注釈した書

 

 「経(きょう呉読み)」というは経(けい漢読み)なり。経よく緯(い)をたもつ。緯をたもって匹丈をうる。という言葉がある。

 

織物は、一匹、二匹と数える。

経(けい)は縦糸のこと。

緯(い)は横糸のこと。

縦糸(経)よく横糸(緯)をたもって布になる。一枚の織物が誕生する。縦糸と横糸が同時に織りなされて一枚の織物になる。

 

縦糸は基軸、縦糸が張られていないと横糸が織れない。

ところが基本縦糸は見えない。見えるのは横糸。縦糸はいのち、けれど見えない。見えないものによって見えるものが成り立つ。見えるものは見えないものの証(あかし)、証明。

蓮如上人「信心は内心に深くたくわえて」という言葉が(御文にいくつか)ある。

縦糸はいのちだけれども見えない。うちに秘められている。

(当然、頭の中のBGMは中島みゆきの「糸」)

 

池田先生は、坊守会研修会で23年掲げられてきているテーマの、「現代(いま)を生きる、寺をひらく、私をひらく」を軸として、

 

真宗大谷派宗憲の一文

「すべて宗門に属する者は、常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社会の顕現に務める。」

ということについて、

私をひらくということは、「自信教人信の誠を尽くし」ということ、

寺をひらくということは、「同朋社会の顕現に務める」ということ。

 

それらは、親鸞聖人750回御遠忌が全国各教区で行われるテーマにもみられ、

岐阜教区は、「眼(まなこ)をひらく心(こころ)をひらく」

私をひらくということは、「眼をひらく」ということ、―主体の問題、主体をたまわる、主体の獲得

寺をひらくということは、「心をひらく」ということ。―他者に向かって、同朋の発見

眼をひらくー縦糸―見えないー私をひらく

心をひらくー横糸―見えるー寺をひらく

縦糸横糸同時に織りなされ一枚の織物が誕生する。

 

新潟・三条教区は、「親鸞さんにあおう」(これは本山御遠忌テーマ「宗祖としての親鸞聖人に遇う」を易しい言葉にしたものか)

このテーマを聞くことによって感じるのが、「自己にあおう、他者にあおう」ということ。

私をひらくということは、「自己にあおう」ということ、―自分があきらかになる

自己にあうということは他者にあうということに他ならない。他者に会うということで自己にあうということが成り立つ。

寺をひらくということは、「他者にあおう」ということ。―他者を見出す、同朋の発見

 

私をひらく(縦糸)寺をひらくということからはじめて問われる。そういう意味で私が変わるということは、他者との出会いによってあきらかになる。

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これは、「講義難しいわー」といった友人のためにまとめたもの。機会があればまた聞いてきたことを整理したい