我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ
我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学
自分のブログにこの言葉を探したが無くてがっかりした。
ので、アップする↑
法話の最後はこの言葉にした。
私は空砲うっとるみたい存在やな、一生懸命に教えを伝えているつもりだけれど、こんなに自分の身近にいる人に、なにもいえないままでいいのか、
それで震えながら実弾を込めました。
こんな時のコミニュニケーションは命がけです。一言が、人間関係が壊れて、
相手のことも殺してしまうことになりかねない
「生きている実感がほしい」というたけれども、
「生きていることが虚しい」というたけれども、
その虚しさ、誰でも本当に自分に向き合ったならば、これまで生きて来て、何を手にしたか、確立したものも目標もなくて、私の存在自体が不安になる。
生きている実感がないという思いを抱えているのは、私たちだけではない
そして、「こんな私ではダメだ」と自分を追いたてるのは、「自分」。
人間という存在に許しを請うこともなく、救いを求めることもなく、
ただ自分であろうとするのなら、
虚しさや不安、孤独にさいなまれるのは自然なこと
寺があるのは、800年間大事にされてきた教えがある。
それは、「あなたはあなたであればいい」という教えである。
それを常に呼びかけられている。それをあみださんといってきた。それが本堂の真ん中にある阿弥陀仏
先生が、「あなたは(とても優秀で理解はしている)いつまですくいなんかないといっているのか」と怒った、「素直にすくいを信じる、その一点」だと。
実弾で至近距離から撃ちましたが、さっとよけられたというか、当たっていないような気はしましたが、
「あなたはあなたであればいい」それは求めるものにはいつも開かれている
我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、
我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず