『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「他力の救済」 清沢満之

我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ

清沢満之

我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学

 

自分のブログにこの言葉を探したが無くてがっかりした。

ので、アップする↑

 

法話の最後はこの言葉にした。

 

私は空砲うっとるみたい存在やな、一生懸命に教えを伝えているつもりだけれど、こんなに自分の身近にいる人に、なにもいえないままでいいのか、

 

それで震えながら実弾を込めました。

こんな時のコミニュニケーションは命がけです。一言が、人間関係が壊れて、

相手のことも殺してしまうことになりかねない

 

「生きている実感がほしい」というたけれども、

「生きていることが虚しい」というたけれども、

その虚しさ、誰でも本当に自分に向き合ったならば、これまで生きて来て、何を手にしたか、確立したものも目標もなくて、私の存在自体が不安になる。

生きている実感がないという思いを抱えているのは、私たちだけではない

そして、「こんな私ではダメだ」と自分を追いたてるのは、「自分」。

人間という存在に許しを請うこともなく、救いを求めることもなく、

ただ自分であろうとするのなら、

虚しさや不安、孤独にさいなまれるのは自然なこと

 

寺があるのは、800年間大事にされてきた教えがある。

それは、「あなたはあなたであればいい」という教えである。

それを常に呼びかけられている。それをあみださんといってきた。それが本堂の真ん中にある阿弥陀仏

先生が、「あなたは(とても優秀で理解はしている)いつまですくいなんかないといっているのか」と怒った、「素直にすくいを信じる、その一点」だと。

 

実弾で至近距離から撃ちましたが、さっとよけられたというか、当たっていないような気はしましたが、

 

「あなたはあなたであればいい」それは求めるものにはいつも開かれている

我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、

我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず

 

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