『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

眠れない夜に

実は先日眠剤を処方してもらった。

今夜も0:00過ぎに眠って2時間半で起きた。眠れない理由は思い当たらないこともない。

ウサギが添い寝してくれないこと。このところ毎晩一緒に寝ていたのに、今夜は来ない。高齢だから、その時が近いのだろうか、という不安。

そして、3月4月の法話依頼が、何を話そうかと、上手く話せるかと、不安。話が下手だから、書いて話すことしかできないのだけど、その内容がまだ定まらない。

 

つい最近まで、人がうらやむほど寝た。本人は寝すぎで若年性アルツハイマーになるのではないかと結構本気で心配だった。

当然今は眠れないので不安。最近体調を壊したのも、寝ない、食べない、忙しい、のが大きな要因だと思っている。で、眠剤を処方してもらった。まだ飲んでいない。今夜は飲まないけれど。

眠れてもそうでなくても、心配している。笑える。

 

(今日お講で話したこと)

以前、眠れなかった夜に考えていた。

村の大好きなとうちゃんが、「や(病)めて、眠れんがや。」と言った。とうちゃんは、ハルシオンを処方され、毎晩飲んでいた。

大好きなとうちゃんが、毎晩、「やめて」、薬を飲まな寝れんかと思うと、なにもできない自分が悲しかった。今でもそうです。

 

慈悲という言葉は、

「慈」には傷みを抜くという意味があり、 

「悲」には安らぎを与えるという意味があると聞いている。

 

親鸞聖人は御自身を

「小慈小悲もなけれども」

と言葉にされ、歎かれた。

ちいさな慈悲の気持ちも無い。

 

くよくよしていても、何の力にもなっていない。

 

(眠れないのですからいろいろ考える)そういえば、以前勤務していた身体障害者療護施設でも、入所者の半数以上の人が毎晩眠剤を処方されて飲んでいた。

そういえば私も若い時胃炎になった時、精神安定剤だったか、眠剤だったかを処方してもらった。

誰もが人知れず眠れないほど辛い夜を過ごしているのかもしれない。

眠剤を処方される方が皆そうだとは決して言わないけれど。

 

当寺永代祠堂経で講師の方にお話しいただいて、特に心に残った詩がある。

 

「わからない」

 

     お父さんは 

     お母さんに怒鳴りました

     こんなことわからんのか

 

     お母さんは兄さんを叱りました

     どうしてわからないの

 

     お兄さんは妹につっかかりました

     お前はバカだな

 

     妹は犬の頭をなでて

     よしよしといいました

 

     犬の名はジョンといいます

 

                  杉山平一 詩集『希望』2011年 (97歳の作品)

 

講師のSAME師は、この詩を、黒板に書いて、2度ほど繰り返し読み、「犬の名はジョンといいます」を3、4回繰り返し言った。

 

誰もが人知れず眠れないほど辛い夜を過ごしているのかもしれない。

このお父さんも辛くて、お母さんにあたったのかもしれない。

お母さんも辛くなってお兄ちゃんを叱り、

お兄ちゃんは悲しみを妹にぶつけた。

けれども、どうですかね、悲しみの連鎖では出口がない。

講師のSAME師は「犬の名はジョン、ジョンよしよし」が南無阿弥陀仏だとおっしゃっていました。

南無阿弥陀仏は、名号(みょうごう)、それは、名前を呼ぶ、ということです。

阿弥陀仏の、名前を呼ぶ。

そのことが、念仏の(教えの)救いである。

誰もが人知れず眠れないほど辛い夜を過ごしているのかもしれないのだけど、その悲しみを連鎖しても、出口という救いがない。

ところが、「ジョン、よしよし。」名を呼ぶことで、救いになる。

そのことは、不可思議な念仏のはたらきに似ているのでないか。

 

念仏のすくいが不可思議であるということについて、親鸞聖人の和讃(詩)がある。

 

五濁悪世の衆生の

選択本願信ずれば

不可称不可説不可思議の

功徳は行者の身にみてり

(高僧和讃 一百十七首の結びの言葉)

 

五濁悪世の有情の

選択本願信ずれば

不可称不可説不可思議の

功徳は行者の身にみてり

(正像末和讃<第三十首>)

 

法話後、SAME師と話していた。

正信偈(しょうしんげ)の言葉、

なんちゅうしーなんむーかーしー(「難中之難無過斯」)は、

信楽を受持すること、はなはだもって難し。 難中の難、これに過ぎたるはなし。(信楽受持甚以難 難中之難無過斯)

私のように教えを聞いて喜ぶ気持ちが、持続しない。ということなのだと思う。今日は、今は、聴いて、そうだと、そうだったと、喜んでも、その喜びはいつの間にか消えてしまう。それどころか、聴いたこと喜んだことを疑ったりさえする。けれども、そうだからこそ、聴く機会が開かれてきたのだと思う。それはそれはたくさんの聞法の機会が今も開かれてある。あまりにも、たくさん聴く機会、私にとっては話す機会があって、聴く者も話す者も辛くなる時もあるのだけれども、浄土真宗にとって、聴聞、聞法は最も大事なところだと思っている。

 

なんて、眠れない夜に考えている。

 

ちなみに、先日眠れなかった日は、体の痛みで「やめて」眠れなかったのだけど、同時に一晩中、新しいカメラを買おうかどうしようか、どれにしようか、買ったら、あこの花撮って、あこ行って鳥撮って、とか延々と楽しく考えていました。

熱でとったがです。熱出てやめて寝れんかったて気付くのに2日かかりました。

はじめて体の痛みで「やめて」眠れなかった日は、一眼レフに55-300mmのでかいレンズをつけて、カメラを入れるバックに18-55mmのレンズもいれて、担いで、梵天と1時間散歩したので、全身筋肉痛になったと思っていたのです。熱出たり、あんまりものなったことないもんで、熱出てもわからん。だらやなーと、我ながら笑ってしまいます。

 

しばらく2、3時間程しか眠れない日が続いて、眠剤を処方してもらってから、安心したのか6、8時間眠れた。今夜はこの原稿を書いたから少しは安心して眠れるかもしれない。

 

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当寺、永代祠堂経法会を3/2から3/5まで、勤めている。

こっそり父の命日を入れ込んでいる。

花はお兄ちゃんが立ててくれた。本来は住職が立てるべきだろうけど。

梅が入って、とってもいい感じ。お経をあげていてうれしい気持ちにさえなった。

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