お散歩道草 osanpomichikusa 

-続迷林遊林航海記

【正信偈の教え】5 如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 

【原文】
如 来 所 以 興 出 世
唯 説 弥 陀 本 願 海
五 濁 悪 時 群 生 海
応 信 如 来 如 実 言
【読み方】
如来(にょらい)、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、
ただ弥陀(みだ)本願海(ほんがんかい)を説かんとなり。
五濁(ごじょく)悪時(あくじ)の群生海(ぐんじょうかい)、
如来如実(にょらいにょじつ)の言(みこと)を信ずべし。

釈尊が世に出られたわけ
 まず、「如来(にょらい)所以(しょい)興出(こうしゅつ)世(せ)」「如来、世に興出したまうゆえは」とあります。「如来」というのは、「如(真実)から来た人」という意味ですが、この場合は、釈迦(しゃか)牟尼(むに)如来、すなわち釈尊(しゃくそん)のことをいっておられます。「世に興出したまうゆえ」というのは、「この世間にお出ましになられた理由」ということです。つまり、釈尊は、どのような目的があったために、この世に生まれてこられたのか、ということです。
 それについて親鸞聖人は、「ただ弥陀本願海を説かんとなり」(唯(ゆい)説(せ)弥陀(みだ)本願海(ほんがんかい))と述べておられます。つまり、釈尊がこの世間にお生まれになって、仏に成られたのは、ただただ、われわれに、阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった、ということです。
 「本願」という言葉に、「海」という字を添えておられます。それは、どのような人もすべて浄土に迎え入れたいとされる阿弥陀仏の本願が、海のように広く深い願いであることを印象深く表現されているのだと思われます。
 親鸞聖人は、師の法然上人のもとで、本願念仏の教えに出遇われましたが、ほどなく念仏への弾圧という法難(ほうなん)に遭われて、越後に流罪になられました。京都に生まれ育たれた聖人は、この時はじめて海を見られたのではないかと思います。あらゆる川の水をそのまま受け入れ、生きものであれば、すべてを生き生きと活かす力をそなえた、広く深い日本海を感慨深くご覧になったことが偲ばれます。

・この世間に生きる私たち
 釈尊がお出ましになられた世間というのは、どのような世間なのでしょうか。それは、とりもなおさず、私たちが生きているこの世間なのです。それでは、私たちが生きているこの世間とは、どのようなところなのでしょうか。
 釈尊は、『阿弥陀(あみだ)経(きょう)』のなかで、この世間のことを五濁(ごじょく)の悪世であると教えておられます。すなわち、五つもの濁りがある、ひどい世の中ということです。私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。
 私たちは、この世間が何の問題もない立派な世間だとは思っておりませんし、また、まことにいい時代だとも思ってはおりません。だからといって、「五濁」だとはっきり認識しているかというと、どうもそうではなくて、この世間にもこの時代にも愛着を感じているのではないでしょうか。そして、悪い世の中、悪い時代だと言いながら、誰かに何とかしてほしいと思い、もっといい時代になってほしいものだと、身勝手なことを考えているのです。まったく不確実な期待をいだいて、事実から目をそらせているのです。
 私たちが愛着を感じているこの世間は、釈尊の澄みきった眼(まなこ)でご覧になると、実はひどく濁りきったところなのでしょう。また親鸞聖人は、ご自分を厳しく見つめられて、「罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)」と見きわめられましたが、ご自身が生きられたその日々を、どうしようもなく濁りきった毎日と受けとめられたのだと思われます。
 「五濁悪時の群生(ぐんじょう)」といわれる「群生」は、「衆生(しゅじょう)」と同じ意味の言葉で、「あらゆる生きもの」ということです。インドの言葉が中国語に翻訳されるときに、翻訳者によって用(もち)いた訳語が異なったわけです。「群生」も「衆生」も、さしあたっては、私たちのことを指しているのです。
 「五濁悪時の群生」、つまり五濁といわれる悪い時代に生きている私たちは、いったいどうすればよいのか。それについて、「正信偈」には「如来如実の言みことを信ずべし」(応信(おうしん)如来(にょらい)如実言(にょじつごん))と詠われています。すなわち、五濁の悪時に生きる私たちとしては、ありのままの事実(如実)をお説きになられた如来のお言葉を信ずるほかはないのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
 この場合の「如来」は釈尊のことです。「如実の言」というのは、『仏説無量寿経』に説かれている釈尊のお言葉です。つまり、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉なのです。
 先ほどの「群生」という言葉に「海」の字が添えられていますが、これは、前の句の「本願海」という言葉と関連していると見てよろしいでしょう。阿弥陀仏の本願が海のように深く広いものであり、群生は海のなかの生きものほども数が多いことから、関連させておられると理解することもできると思います。
 しかし、海はあらゆる生命の源です。生きるための依り処です。広大な本願の海が、そのまま、そこでなければ生きものが生きられない群生の海なのです。どう見ても、なさけない生きものとしか言いようのない私が、本当に「いのち」あるものとして生ききれるのは、阿弥陀仏の大きな願いのなかに包まれている自分自身に気づかされることによるのだと、聖人は教えておられるのです。

・「五濁の悪時」
 「五濁(ごじょく)」というのは、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁(こうじょく)」「見濁(けんじょく)」「煩悩濁(ぼんのうじょく)」「衆生濁(しゅじょうじょく)」「命濁(みょうじょく)」の五つです。
 まず、「劫濁(こうじょく)」ですが、「劫」は「時代」という意味です。「劫濁」というのは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態です。
 「見濁(けんじょく)」の「見」は「見解」ということで、人びとの考え方や思想を言います。「見濁」は邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。
 「煩悩濁(ぼんのうじょく)」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。
 「衆生濁(しゅじょうじょく)」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに、人びとの資質が衰えた状態になることです。
 「命濁(みょうじょく)」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。また生きていくことの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことであると、今は解釈しておきたいと思います。もともとは、人間の寿命が短くなることであると解釈されてきましたが、それは命の年数が短くなるというよりも、精神の豊かさが薄らぐことを意味していると理解してよいように思われるのです。
 私たちが暮らしている現代社会は、身のまわりに起こっている、さまざまな出来事や事件を一つ一つ眺め返しますと、悲しいこと、悩むことが多く、とても喜びにあふれた社会とは申せません。しかもおぞましいことに、そのような出来事があまりにも多いので、慣れっこになってしまって、驚きや悲しみの実感が薄らいでしまってさえいるのではないでしょうか。
 現代の世相は、まさしく「五濁」というよりほかはありません。この悲しい「五濁の悪時」に生きる人類は、いったいどうすればよいのでしょうか。あらためて釈尊のお言葉を信じて生きるよりほかはない、と親鸞聖人は教えておられるのです。すなわち、釈尊が『大無量寿経』に示された、阿弥陀仏の本願を依り処にして生きるほかはないと教えておられるのです。
 釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を教
えようとしてくださったためであったのです。
 それは、深く悩み苦しみながら生きなければならない私たちを救おうとされた願いです。目先の出来事に心を奪われて、苦悩している自分の事実すら見失っている私たちを救いたいという願いなのです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

参考:正信偈の教え-みんなの偈- | 東本願寺