大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
The great entrusting heart is itself Buddha-nature, Buddha-nature is none other than Tathagata.
p.487 「浄土和讃」
5月8日は心に刻む(ニアイシネルン)ための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべる(ゲデンケン)ことであります。そのためには、とりわけ誠実さが必要とされます。
われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃(たお)れたすべての人々の苦しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所の中で命を奪われた600万人のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃(たお)れた同胞、そして故郷の空襲で、捕らわれの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたシィンティ、ロマ(ジプシーと呼ばれた人)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念ゆえに死ななければならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンス(抵抗者)の犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジス
(中略)
罪の有無、老少いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻み(ニアインキルン)つづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目にとなります(拍手)。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
出典:『荒れ野の40年』ヴァイツゼッカー大統領演説全文 岩波ブックレット
2016.9.30 いしかわ教育総合研究所 田村光彰(元北陸大学教授)
石川の戦争を学ぶ 第三回 日独の戦後処理・反省
資料より。
ずっと、書こうと思っていた。ところが、この大事な資料が迷子で。捨てるわけはないから、そのうち、と思っていた。見つけたときもあった。でも、その時は今度書こうと思って(笑)。もう今日は絶対見つけると部屋中引っかき回してようやく見つけた。お陰で部屋がきれいに。まあ、よくある話(笑)。
田村先生は丁寧に、大切なことをたくさん教えてくださいました。
金沢が、「731部隊(戦争中に生体実験をした)」に縁が深いことを、知りませんでした。
特に印象的だったのは、
日本は戦争犯罪を裁かず、明らかにしなかったから、繰り返す恐れがある。
対してドイツは、戦争を繰り返さないために、ナチス犯罪に時効を設けない。
94歳になっても、97歳でも裁判をやめない。
毎日新聞が2012年7月19日、97歳のナチ戦犯が拘束されたことを伝えている。
徹底的に、ナチス犯罪を許さない。今でも続いている。これが日本と違うところである。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
という、ヴァイツゼッカー大統領演説は有名で、差別問題の研修会でもよく紹介され、耳にすることがあったが、この前に、下記に表すこの順番で、思い浮かべるということで、弔いの言葉(謝罪)が述べられたことを、知って衝撃を受けた。
まっさきに、思い浮かべるのは、
600万人のユダヤ人
すべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
同胞を哀しみの
そして、
われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
ドイツの人たちの動画を見せていただきました。彼らはこの言葉を共有していました。
「私にも、責任がある。過去からの帰結に関わる。」
ヴァイツゼッカー大統領:
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー - Wikipedia
ドイツには、「祈念(追悼)の場・ノイエ・ヴァッヘ」がある。
ドイツは、追悼のために、1993年新「ノイエ・ヴァッヘ」成立
そこに、彫像(ブロンズ)「死んだ息子を抱く母親」(ピエタ)がある。母と死せる息子。息子は裸で、裸であるということは、生身の裸の人間としての息子の死が、表現されている。
また、ミケランジェロのピエタは「死んだイエスを抱くマリア」で、戦争の犠牲となる、母と若者のみが、表現されることに、疑問がなげかけられることがある。ヴァイツゼッカー大統領演説にあるように、戦争は、国籍、身分(市民・兵士)民族を問わずすべての死者が戦争の犠牲者である。私たちはそれを決して忘れてはならない。
ノイエ・ヴァッヘとは:
田村先生が、ノイエ・ヴァッヘの「死んだ息子を抱く母親」(ピエタ)の画像を見せてくださった。
そこに花が手向けられていた。
ノイエ・ヴァッヘの像を検索すると、花が手向けられている画像をいくつも確認することが出来る。
亡き人のために花を手向けるということは、民族や文化を超えて、あるものなんですね。と、私が言うと、隣に座っていた先生は静かにうなずかれた。
晩春の候、と書いて案内をだした
お母さんが、採ってきたゼンマイを干している。これすごく喜ばれるんだよ。
どうしても撮っておきたかったのが、このグミの花。
グミというのは、サクランボみたいなのがぶらぶらたくさんなるので、小鳥たちが喜んで食べに来る。この木は、実が小さくて、小鳥たち用
【ドクゼリ】、身近にあってもおままごとで使うときは要注意。
これは、オレンジ色のオオイヌノフグリみたいな草です
草花の専門家のようなおばあちゃんがくれました。これならほおっておいても大丈夫。
これもね、撮りたかった。アケビの花。でもちょっと遅れたかな
タラの芽。また食べずに終わりそう
野イチゴの花
んー、これは、栗だったかな
これは、クルミの新緑。
Week 39 : Handmade
職人の手工芸品に触発されたアートの写真
写真は大きいけれど、ぐい飲みだから手のひらに収まるくらいの大きさです。
誰も気づかなくて。こんな素敵なもの10円て、ひどいよね。
裏を返すと、「善吾楼」の刻印。お店の記念品なのかな。
九谷焼って書いてないけど?って、
見りゃわかるよ、これは、九谷焼。
さて、
お気に入りの九谷焼はたくさんある。でも買ったものってほとんどない。
まあ、金沢というお国柄です
カワセミのお皿。五枚揃え
素敵でしょう。煮ものなんかをちょこんと盛る。
パソコンに、明るい友人ができて、
「触ってみる」ということを始めることになりました。スマホの写真アプリだって、まあ、パソコンだって、いいまで使うことがなかったちょっとした便利な、ちょっと楽しい機能がたくさんあることを知りました。
そんなわけで、ちょっと加工しましたよ。明るくして、なんだったかなー、忘れた(笑)。
最後は、父の形見
よくわからないけど、すごく高いみたい。「柿右衛門」だと話していた。
伊万里の窯に行って、話を聞いた。
そこで、買ってきた。
って言っていたような、気がする。まあこれもずいぶん前の記憶だから、正しくないかも。もう、15年以上前のこと。
九谷焼がすきな私を、「そんなもの、印刷だろう、これは、見てみろ、手書きだから、一つ一つ違うんだ。」って威張っていた。
一つしかなかったら、手書きだから一つ一つ違うってわからないよなー。と思ったが、角が立ちそうだったから、言わなかった(笑)
いーじゃないか、どっちもきれいだ。
職人の手工芸品。
あとで、金沢の棒田和義さんの作品を紹介します。
九谷焼の陶板を作っていらっしゃいます。すっかり好きになってしまって、何点か(母が)買いました。絵だと、カビてしまう。陶器だと、長持ちしそうだ、だからすき。
いーやろー
七尾市に行きました。
駅に近いホテルで宿泊。県外から来られるようなら是非もう少し足を伸ばして和倉温泉といきたいところ。
今回は友人のお寺で友人のお話があったので、友人たちと遊林に声をかけてお話を聞きました。一見、うちわで盛り上がっているだけのようですが、参加者はそのお寺のご門徒さんたちのほかにも、近隣のご門徒さんや、とにかく新聞にチラシを入れたということもあって、いろんな方がお参りに来ていました。地元の仲間、富山から2時間かけて参加した友人(の友人(笑))。それから、1時間かけて参加したうちのスタッフ2名、浄土真宗本願寺派の友人。高校生の遊林、小学生くらいの子もいたな。浄土宗のいとこ・・・
そういうのって、とっても素敵ですよね。
さて、次の日も10時からお話があったのですが、
エスケイプして、七尾の海を見ながら、車で二度寝
海と川が繋がる場所。ここでお兄ちゃんがハゼを釣ってきてくれたことがあった。
父の見ていた海。
八重桜が撮りたかったけど、iPhone5sじゃいまいち(笑)。
少し休んで、午後の法話には、参加したかった。
そこで、以前から行ってみたかった、「田鶴浜野鳥公園」へ。
ちょっと曇っていて、まあそれはまた、いいなぁと。
すずめ、すりすり。かわいー
向こうに見えるは、能登島大橋
海に面した森を歩く
お、いーの撮れたどー。
【ヒヨドリ】だけど。
これも【ヒヨドリ】
これも。
「ヒーヨ、ヒーヨ!」
おお、あれは?
【モズ】でした。メスだ、たぶん
リフレッシュ。
おまけ:
すっかりすきになってしまった【レンギョウ】
晴れた日、ぼーっと見つめる
ん、最近迷林ぼーっとしていること多いな。ま、春だし
4月はじめに撮った
これは、金沢で
不思議な椿?
デコポンなっていた。
「僕が死のうと思ったのは」amazarashi僕が死のうと思ったのはあなたが綺麗に笑うから死ぬことばかり考えてしまうのはきっと生きることにまじめ過ぎるから僕が死のうと思ったのはまだあなたに出会ってなかったからあなたのような人が生まれた 世界を少しすきになったよあなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ
あ、遊林いわく、この動画は、amazarashi という方ではないんだそうです。でも、歌詞も、この方の声とか感じもよいので、気に入って繰り返し聞いています。