week3:花と光のボケを組み合わせて撮ってみよう(2回目)
焦点距離:300ミリ
撮影モード:絞り優先
絞り:F6.3
露出:±0
WB:太陽光
ISO:100
・カメラのテクニック
小さなグミの花が際立つように、背景は大きくぼかすように。
(参考:「52の宿題」鈴木知子 日本写真企画 より)
焦点距離:300ミリ
撮影モード:絞り優先
絞り:F6.3
露出:+1.0EV補正
WB:太陽光
ISO:100
The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as their only child.
『浄土和讃』
ten quarters-【十方】
compassionately-(副)思いやりをもって、同情的に、哀れみ深く、情け深く、温情をもって【憐念】
regard-AをBとしてみなす【す(る)】
each sentient being-すべての感覚のある生き物【衆生】
(as) their-彼(彼女)らの、【十方の如来】
only child-一人っ子、唯一の子【一子】
「わかったぞ」と、遊林。すごいぞ遊林。
迷林は今『親鸞の世界』を斜め読みしている。西谷啓治が司会をして、鈴木大拙と曽我量深と金子大栄が対談している本。この始めに、鈴木大拙が「教行信証」を英訳した時のことが話されている。それですっかり、英訳が気になって、遊林に泣きついた迷林だった。
「sentient beingがわかった瞬間、すべてがわかった」と彼女は言った。数学も英語もさっぱりわからない迷林は、「Tathagatas(たたーがたー)」だけはわかった。それは唯一遊林の電子辞書には出てこない言葉だった。
272829日と法事が続いた。
浄土真宗の法事は、(死んだ人のために勤めるのではなく)亡き人を縁として念仏の教えを聞く場を開くということが願われてきた。と、習っているので、毎回必死で読経の後、短い法話をする。
話したいことはあるのだけど、話せなかったので、ここに吐露する。
歎異抄第三条
三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
善人でさえも阿弥陀の浄土へ生まれることができます。まして悪人はいうまでもありません。ところが、世間一般の人々はつねにこう言います。「悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である」と。
これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。なぜかと申しますと、自分の力をたのみにして善行を励み、それによって悟りを開こうと思っている人々は、ひとすじに他力をたのむという心が欠けているのですから、阿弥陀の本願に背いていると言わねばなりません。
この「自力作善のひと」がこの第三条をいただく上での要だと思います。
この「自力作善のひと」という言葉を、私のおじいちゃんは、京都の僧りょの学校から帰ってきたなりの私に、「迷林ちゃん自力作善のひとってなんや」とたずねてくれました。それからずっと、「自力作善のひと」って何かなぁと思っています。いつもそれなりに答えはあるのだけど、こんでわかったってならんがやね、問い続けています。「実は問いが大事なのだ」と、よく言われます。
じいちゃんはなんで私に「自力作善のひとってなんや」と聞いたのか。
生涯課題になるようなそれは大事なことだったにちがいないんですね。
(信國淳先生は)私たちは誰も皆、自力作善の人と言わなければならないものであり、善人に、善きものに、幸せなものになろうとするその心で、善きものになろうとし、同時に他人の上にも自己自身の上にも悪しきものを作り出し、見出し、善きものになろうとするこころで、悪人を見つけ出し、憎み蔑み、責め、さいなむ、私たちは誰も皆、自己自身が悪しき者であることを恐れる善人なのです。(CD『悪人成仏』信國淳東本願寺)
と、話されていました。
自力作善の人【善人】は、自分でちゃんと善いことしとるし、努力もしとるし、阿弥陀さんにたすけてくれということがない、たすけてもらわんでもいいんだから、「弥陀の本願にあらず」阿弥陀さんがたすけんでいい。「弥陀の本願にあらず」阿弥陀の本願に背いている。
はたして私たちは、自力作善の善人ではなく、往生の正因である他力をたのみたてまつる悪人でしょうか。
法事で伝えるにはハードルが高すぎる。だって罪の意識がないのだから。
「仏教は人間の存在を、二つの言葉でとらえます。一つは罪の存在。そして、迷いの存在。私たちは"迷いの衆生よ、念仏申せ"と呼びかけられています」せっかくの念仏の教えを聞く場だから、この一言だけは伝えた。
10万切ったら買おうと思っていたNikon COOLPIX P1000。3000mm相当、光学125倍の超望遠ズーム
15日、楽天の「お買い物マラソン」でたくさんポイントがつくのを教えていただいて、ついにポチってしまいました。レンズフィルター(ニュートラルカラーNC 77mm)と、バッテリー(EN-EL20a)も注文。28日に届きました。
やっぱりすごいね。すごいきれいに撮れる。
こたつから庭のヒヨドリ撮りました。
私は近視で、コンタクトをつけて0.7くらいの視力で、私の目では見えない遠くの小鳥も撮れます。
この日は曇りだったのでわかりにくいですが、カシラダカが三羽います。
GW晴れたら鳥を撮りたいな。今年も。
二日目は、奈良のおおくぼまちづくり館に行きました。
奈良県橿原市が大久保地区のまちづくりの歩み・人権学習などをすすめるため、2002年に整備した歴史博物館。大正時代に神武天皇の拡張整備に伴い、差別部落がまるごと集団移転させられた旧洞(ほら)村の歴史を伝える。(真宗大谷派金沢教区教化委員会パンフレットより)
「下駄表づくり」「靴づくり」の記録映像や洞村移転に関するガイダンス映像「恐懼に堪えざること」を見て説明していただきました。
恐懼というのは、神武陵を見下ろすこと。
洞村が移転しなければならなかった理由と経緯を資料とともに解説
洞村からはじまるまちの歴史を伝える。
2F「靴づくり」の製造工程
水平社博物館
奈良県御所市にある歴史博物館。水平社宣言と水平社設立、活動を支えた人々と歴史を紹介する。
1922年、西光万吉により人間の尊厳と平等をうたい上げた全国水平社が創立。その後、1986年に、地区改良事業に伴う水平社魂の希薄化が危惧され、諸先輩が差別に抗して生きてきた足跡を保存していくため「水平社歴史館」を建設。1999年より、水平社運動と人権に関する専門博物館として「水平社博物館」に名称を変更する。
水平社博物館の前は西光寺。2Fから撮影
フィールドワーク
「『解放令』から五万日目」記念碑
燕神社へ
神武天皇社
全国水平社創立当時、誓願時に三浦玄洞という住職がおり、坂本清一郎や西光万吉のよき相談相手として、水平社運動に支援・協力した。
ありがとうございました。
バスに戻ります。
昼食は柿の葉ずしヤマト
おいしかったので、お土産に柿の葉ずし20個入りを買いました。好評でした。
(行きは、水平社創立のビデオを観たので、)
バス旅行お約束の「釣りバカ日誌」を観て帰りました。
事前学習会も含めてすごくいい研修会でした。 人がなかなか集まらなくてちょっともったいなかった。この「人権と平和の旅」は解放運動推進委員会の研修旅行だけど、今回は門徒研修小委員会の「春の研修旅行」と合同で開催することになった。門徒研修小委員会の「春の研修旅行」は、毎回40人くらいの参加がある。残念ながら今年は20人だった。でも、私が所属する解放運動推進委員会の研修旅行は毎回10人くらいだから、いつもの倍の参加者があったわけで、バスの隣に座ったIさん他、いろんな方と知り合えてとてもよかった。門徒会の方々と一緒に差別を考えたり、フィールドワークで現場を経験するのは貴重なことだと思う。
朝の渋滞で金沢別院集合には間に合わなくて、8:50に徳光SAでバスに乗る。
添乗員さんとバスガイドさんもいらっしゃいます。親切にしていただきました。
まずは、京都の「きょうと和み館」で昼食
柳原銀行資料館へ
柳原銀行は、明治期、被差別部落の住民により地区内に設立された日本で唯一の銀行。皮革業者等を取引先に抱え、地元産業の振興や教育の向上に多大な貢献をしたが、金融恐慌の影響を受け1927年に閉店。建物は、商店や借家として1994年まで使用される。その後、建物の移築、復元、保存事業に着手し、1997年から『柳原銀行記念資料館』として開所する。(真宗大谷派金沢教区教化委員会パンフレットより)
フィールドワーク
この周辺は京都市立芸術大学の構内になるけれども、柳原銀行資料館は残るようです
六角堂へ。聖徳太子の建立と伝えられる。
親鸞聖人は、比叡山を下りて六角堂に百日参籠し、九十五日目の明方に、聖徳太子の示現によって、吉水の地に庵をむすんでいた法然上人をたずね、浄土真宗の教えに出遇われた。
自動販売機がかっこいい
ハトが近いっ。
遊林のお土産はハトの刺繍がある六角堂ハンドタオルにしました。
白鳥がいる
あっという間に集合時間。どこからともなくやってきたバスに戻る。
六角堂はバスの駐車するところがない。
参加者の方からいただいた台湾ビールを飲み、宿泊先「ホテル東山閣」へ
※大浴場あり
弥陀の大悲ふかければ
仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかいたり「浄土和讃」10
親鸞聖人のご和讃に、こんなダサい言葉がある。
なんだかはっきりわからなくても、確実に気分が悪い和讃である。
女は、「男になって」成仏する。
お葬式のときに、「正信偈」と「和讃」を勤めるが、「葬儀中陰勤行集」に、亡くなった方が男性の場合は、
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし「高僧和讃」天親菩薩3
を勤め、亡くなった方が女性の場合は、
弥陀の大悲ふかければ
仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかいたり「浄土和讃」10
を勤めると、書かれている。
※『葬儀中陰勤行集』東本願寺式務部校閲
15.0×11.3 117頁 1976.11 978-4-8318-9205-8 法蔵館
大谷派経典。和綴本・寺院用。枕経、葬儀式還骨勤行、中陰勤行。付録として葬儀とその前後の行事次第を説明。(法蔵館HPより)
葬式の和讃は導師が決めるので、導師になることがほとんどない私は和讃を決めることはないけれど、私が導師なら、女性が亡くなっても「本願力にあいぬれば」にする。
前置きが長くなったけど、今回の研修会の菱木先生のお話で特に印象的だったのは、この”なんだかはっきりわからなくても、確実に気分が悪い”「変成男子」のことである。
菱木先生の資料より
時舎利弗語龍女言。汝謂不久得無上道。是事難信。所以者何。女身垢穢非是法器。云何能得無上菩提。仏道懸曠径無量劫。勤苦積行具修諸度。然後乃成。
又女人身猶有五障。一者不得作梵天王。二者帝釈。三者魔王。四者転輪聖王。五者仏身。云何女身速得成仏。
(中略)女言。以汝神力観我成仏。復速於此。当時衆会皆見龍女。忽然之間変成男子。具菩薩行。即往南方無垢世界。坐宝蓮華成等正覚。三十二相八十種好。普為十方一切衆生。演説妙法。
【時に舎利弗龍女に語って言わく、汝久しからず無上道を得(う)と謂(おも)えども是事(このこと)信じ難し。所以(ゆえん)はいかん、女身は垢穢(くえ)にして是れ法器に非ず、いかんがよく無上菩提を得んや。仏道は懸曠にして無量劫を経て勤苦して具に行を積み諸度を修め、然して後に乃ち成ず。
又女人の身に猶し五障あり、一には梵天王に作(な)ることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何が速に女身成仏することを得んや。
(中略)女の言わく、汝の神力を以て我が成仏を観よ。復た此れよりも速かならん。
当に時に衆会の皆、龍女の忽然の間に男子に変成して菩薩行を具して即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐し等正覚を成じ三十二相・八十種好を(具え)普く十方一切衆生の為に妙法を演説するを見る。】(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』)
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』にほぼ対応するサンスクリット本がある。サンスクリット本には「女身垢穢」の表現は見当たらない
【傍線部の現代語訳】
「婦人は今日に至るまで五つの地位を得ていない。五つとは何であるか。第一はブラフマンの地位、第二はインドラの地位、第三は大王の地位、第四は覇王の地位、第五はひるむことなくさとりを求めるものの地位である」。
「さて、そのとき、サーガラ竜王の娘は、一切の世間の人々の見ているところで、また長老シャーリプトラの見ているところで、彼女に女性の生殖器が消えて男性の生殖器が生じ、みずからさとりを求める者となったことを示した。」
【変成男子説とは】
女性の肉体が男性の肉体に変化すること。五障の解決策として登場する。性差の転換であってジェンダーの転換ではない。
【講義メモ】
法華経が説かれている最中に、説いているお釈迦様は(神通力で)その像だけを残して、
観経の王舍城耆闍崛山の韋提希のところに行っていた。
先生釈尊(の像)がしゃべっているときに、文殊と智積(ちしゃく)が、私語している。(けしからん)それは、彼らが聞いた噂話で、「海の中で、八歳になる龍王の娘の龍女がさとりをひらいた。」のだという。その場に舎利弗がいた。舎利弗は先生釈尊の話よりも、文殊と智積の噂話を聞き入り、真偽を確かめに龍女に話を聞きに行った。
その聞き方がなんとも感じが悪い。
舎利弗いわく、「あなたが最近さとったというのは、信じがたい」
「女身は垢穢(くえ)」であり、法を受け止める器ではない。なぜさとることができるだろうか、いやできない。仏道は長い修行の時間があって成ずるもの(八歳でさとるのはおかしい)。
また女人の身は五種の障礙がある。すなわち、梵天王に作(な)ることができない、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身となりえない。
なぜ女身が成仏することがあるだろう。だから仏になるはずはない」
(中略)むすめはいった。あなたの神通力を持って、私が成仏したときのことを観るがいい。
そのとき、サーガラ龍王の娘は、一切の世間の人々の見ているところで、また長老舎利弗(シャーリプトラ)の見ているところで、彼女に女性の生殖器が消えて男性の生殖器が生じ、みずからさとりを求める者となったことを示した。
女は、「男になって」成仏する。
講義では変成男子(女性の肉体が男性の肉体に変化すること)は女性差別の解決策にならないと語られた。それは時代社会に追従してきた教えの問題である。では私はどうしていくのか。差別問題を学ぶときにいつも選ばされる思いがする。
お葬式で「変成男子」の和讃を選ぶ住職がいる。「この人は、女性差別の問題に関心がないのだな」とため息をつく。
開催趣旨 (研修会レジュメより)
「ことに女人の身は内に五障(ごしょう)あり外に三従(さんしょう)ありてさわりおもく罪深きがゆえに・・・」
五障(ごしょう):女人が持っている五種の障礙(しょうげ)、すなわち梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏身となり得ないこと。法華経提婆達多品に説く。(『広辞苑』より)
三従(さんしょう):婦人が従うべき三つの道。すなわち家にあったは父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うこと(『広辞苑』より)
この言葉はある寺院で毎月開かれる御講で拝読される御消息の一節です。この御消息を聞いた女性から「お参りの度に思うことだけど、正直いい気持ちはしない・・・」と言われたことがあります。男性より女性の方が罪深いのでしょうか。
大聖寺教区では、毎月五つの組(東・西・南・北・中)ごとに開催される相続講の御講(組講)や各在所ごとの御講において、御消息が拝読されています。どのような思いで今日まで伝えられてきたのでしょうか。一度立ち止まって、大切に読まれ続けてきた歴史から、その内容を確かめ今後の歩みにしたいと思います。
今年度の北陸連区差別問題研修会は、性差別の課題に取り組む女性室公開講座と併せて開催いたします。大聖寺教区で拝読される御消息を通じて、性差別の問題や時代社会に追従してきた教えの問題をともに訪ねましょう。
御消息:宗主からのお手紙。特に第八代蓮如上人のお手紙を御文という。また、東寺の御消息には御講にあてた御礼金の領収証・御講解説の許状・善知識としての「ご法主」からの御教化(ごきょうけ)という意味合いがある。
テーマ:浄土を願う~御文・御消息から問われる私~
期間:2019年1月18日から19日
会場:山代温泉「瑠璃光」
講師:菱木政晴氏
問題になった「御消息」だけでなく、日頃馴染みの深い蓮如上人の「御文」五帖目にも、女性差別の言葉はたくさんある。
7 それ、女人の身は、五障・三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり。このゆえに、一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからいては、女人をばほとけになしたまうことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんという大願をおこして、すくいたまうなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけになるということあるべからざるなり。これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまいらせて、ほとけになるべきぞなれば、なにのようもいらず、ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまえとおもうこころひとつにて、やすくほとけになるべきなり。このこころの、つゆちりほどもうたがいなければ、かならず、かならず、極楽へまいりて、うつくしきほとけとはなるべきなり。さてこのうえにこころうべきようは、ときどき念仏をもうして、かかるあさましきわれらを、やすくたすけまします阿弥陀如来の御恩を、御うれしさ、ありがたさを報ぜんために、念仏もうすべきばかりなりと、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
14 それ、一切の女人の身は、ひとしれずつみのふかきこと、上臈にも下主にもよらぬ、あさましき身なりとおもうべし。それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわずらいもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、今度の一大事の後生たすけたまえともうさん女人をば、あやまたずたすけたまうべし。
20 それ、一切の女人たらん身は、弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまえと申さん女人をば、かならず御たすけあるべし。さるほどに、諸仏のすてたまえる女人を、阿弥陀如来ひとり、我たすけずんば、またいずれの仏のたすけたまわんぞとおぼしめして、無上の大願をおこして、我諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、五劫があいだ思惟し、永劫があいだ修行して、世にこえたる大願をおこして、女人成仏といえる殊勝の願をおこしまします弥陀なり。このゆえにふかく弥陀をたのみ、後生たすけたまえと申さん女人は、みなみな極楽に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
蓮如上人の書かれたものには、親鸞聖人にはない表現「五障三従」という言葉が出てくる。三従を定着させたのが蓮如上人であると話された。「時代社会に追従してきた教え」にため息をつく。