『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

追善(ついぜん)

隣村の追善(ついぜん)の依頼が入った。

浄土真宗、というか真宗大谷派の儀式としては「追善」はやらない。「追悼、追弔会」をつとめる。字が違うと内容が違う。集まってお経あげてお焼香して法話をきいて、が、「追 善」にならないのである。それを善とはいわない。そんなことが善ではない。お経をよむことが善なのではない。念仏称えることが善なのではない。

亡くなった方を縁として、集まってお経あげてお焼香して法話をきいて、悼む、思いをはせる ことでしかないし、それが弔うということなんだろう。

ずっといってきたが何も変わらない。

けれども、変わらないから続いている大事なことでもある気もしてきた。

今回はどんな思いで向き合うか。「真宗大谷派の儀式としては追善はやらない」といわないのは簡単なこと。だけどそれは私にとってはうしろめたいこと。