『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

いのちをよろこぶ(お母さんから遊林に贈る言葉)

二月の半ばに「いのちの授業」があった。生命尊重をテーマにした道徳の授業で、誕生するときの様子や家族の思いについて考えることを通して、誕生の喜びや生きることの尊さを感じ、誰もが皆かけがえのない存在であることを実感し、受け継がれ、受け継いでいく自分の命を精一杯生きていこうとする心情を養うことをねらいとした授業。

赤ちゃんの頃の写真を用意し、親からの手紙を書いてくださいということだった。

私はいつものようにぐたくだな長い手紙を書いた。

後日遊林から感動的な手紙をもらった。

卒業式前日、先生に一年間お世話になったお礼の手紙を書き、この素晴らしい機会を作ってくれたことに感謝を述べ、やり取りを同封することにした。長くて迷惑だろうが。

 

いのちをよろこぶ(お母さんから遊林に贈る言葉)

遊林が生まれた時のこと、言っていないことの方が少ないのではないでしょうか。あなたの誕生を想うと、悲しくて身が切られるような思いがすることもあります。

なんでも遅刻する私ですが、妊娠に気づいて病院へ行ったのは6カ月を過ぎてからでした。普通は3カ月くらいで行くのかもしれませんが、「昔の人は病院では産んでいないのだから。」というのがのんびりかまえていた理由です。
行ってみると「シェ―グレン症候群という難病を持っているので、不整脈(ふせいみゃく)の子どもが生まれる可能性がある。母親の抗体の作用により、生まれた子ども、産んだ母、共に痣(あざ)だらけのようになることがあるが、子どもは半年くらいで治る。近い病院では出産が難しく、唯一金沢大学付属病院で出産できる。」ということで、今のように外側環状が無かったころなので、遠くて走りにくい道のりを、妊婦さんが車を運転するのはいろんな理由でよくないと言われますが、毎週運転して、病院まで通いました。通常は毎週通いません。大学病院というのはどんな病気でも2時間待ちますが、私も例外ではなく、古くて暗くて寒い病院の長椅子で、辛くて不安な思いを抱えながら眠って待っていたことを思い出します。

あなたの命が宿ったことをはじめに知らせたのは、父です。父はあなたが生まれるほんの少し前の、3月4日にお浄土へ還りました。悲しい夜で、お葬式も大変で、ショックで切迫流産しそうにもなったし、あまりにもたくさんの人がお参りに来て、家の床が何カ所も抜けて、ご飯を食べることも化粧することも髪をとかすことも歯を磨くことさえできず、腰を抜かしたような状態で悲しみにうちひしがれていました。

それから二週間くらいして3月21日にあなたが生まれたのですが、出産の日は、破水してないのに、「破水です」と報告され、処置室に連れていかれ、寒くて、意識も遠くなって、だんだん冷たくなっていって「私は死ぬのかな、さよなら…」なんて思っていたら、頭を金具にがぶりとはさまれて、あなたは出てきました。青白くてちいさな固まり、もうろうとしていたのではっきりわかりませんが、産声をあげないので、べしべしたたかれて、ようやく泣きました。1894g。即保育器に入りました。

ところがここからが辛くて。夫にも母にも立ち会うことを断ったのですが、皮肉なことに研修医がたくさん立ち会ってくれて、その中の一人が産後の縫合処置をしたので、時間がかかり、なかなか終わらず、しかもひっつかずこれまた大変でした。
辛かったことをたくさんならべて疲れました。

いろいろ辛かったけれど、全てのことを「この子の為ならがんばろう」と思えました。


ストレスで母乳は二カ月で止まりましたが、乳を吸うその姿は私の存在を無条件に全肯定してくれました。「私が必要なんだ」と初めて自分のいのちに感激しました。

あなたが5歳の3月25日の朝、能登半島地震がおきました。地震だと気づき、あなたを探して、揺れる二階の階段で名前を呼ぶと、キャッチボールのボールがグローブに入るようにすぽっと、腕の中に飛び込んできた。私の体であなたをすっかりおおって机の下に隠れて、「私のいのちに代えてもこの子を守る。」と思ったことが懐かしいです。

毎年3月にぜんそくになったこと。高熱が出た夜。イチゴ舌になった日。
ノロ、ロタにもなったね。白いウンコをこいたよ。
一年生の時クラスでただ一人インフルエンザになったこと。
いろんな病気も、私にとっては宝物な経験です。
責任をもっていのちをはぐくむことができた自信をくれました。

先日、聞法会に参加して、「私は幸せだと思う人、手を挙げて。」といわれて、危うく挙げそうになりました。遊林のお陰です。
一緒にカラオケに行った時、点数がのびない私を励まして、茶化すお兄ちゃんに「そんなこといわんの!」と言っていた姿に驚きました。そんなふうに人に接することのできるあなたをとてもほこらしく思いました。

小さい頃から、たくさん説教を聞いてくれましたね。小言も聞いてくれました。
「ママの話は長い」というようになったのは5年生になってから。笑いました。
母(祖母)の、皮肉と自慢もだまって聞いてあげられるの、尊敬するよ。
小さい頃から、いつも私を許してくれる人でした。私が私を許せない時も。

お父さんは、この手紙にあたって、「そうだねぇ、赤ちゃんの時は赤いぷちぷち(母親の抗体)だらけだったねぇ、消えるか心配だった。
よくウルトラマンのポーズできばって、眠気とたたかっていたね。
大好きないとこが遊びに来た時に鐘つき堂で永久歯を折ったねぇ。」
といってクスクス笑いました。

あなたの成長の節目節目に、私たちを親にしてもらっていることをうれしく思います。時に迷って、傷つけあうこともあるけれども、悲しみもまた、大切なものとして共に生きたいと、思っています。また長くなった、ごめんね。

ありがとう遊林。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
(遊林の手紙は後日)