『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

弘願というは、

弘願(ぐがん):

弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にのりて、増上縁とせざるはなしとなり。「口伝鈔」p653(善導大師の『観経疏』(玄義分)の言葉)

教行信証の中にも同じような言葉が2回あります。

「口伝鈔」は本願寺第三代覚如さんが、親鸞の孫にあたる如信さんより口授された教義を記したことから、この名が付けられた。

 

「口伝鈔」の続きをもう少し見る。

(p654)されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ、悪をおそる、宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ、善にうとし。

ただ、善悪のふたつをば、過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて、機のよきあしきに、目をかけて、往生の得否をさだむべからず、となり。

これによりて、あるときの(聖人の)おおせにのたまわく、「なんだち念仏するより、なお往生にたやすきみちあり、これをさずくべし」と。「人を千人殺害したらば、やすく往生すべし。おのおの、このおしえにしたがえ。いかん」と。

 

あ、これ歎異抄十三条の言葉に近い。歎異抄親鸞聖人の言葉を唯円房が書き留めたものだから、歎異抄十三条の言葉の前に、この善導大師の言葉、「弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にのりて、増上縁とせざるはなしとなり。」があったのだと思う。唯円房、聞き逃したか。

 

ここのところの「口伝鈔」はこんな言葉で始まる。p652 

 一(ひとつ)、 善悪二業(ぜんまくにごう)の事。

上人親鸞おおせにのたまわく、

某はまったく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆえは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆえに。

悪のおそれなきというは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆえに。

しかるに、世の人みなおも(思)えらく、善根を具足せずんば、たとい念仏すというとも、往生すべからず、と。

また、たとい、念仏すというとも、悪業深重ならば、往生すべからず、と。

このおもい、ともに、はなはだ、しかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもいのままにそなえて生死を出離し、浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずとも、なにの不足かあらん。

そのこといずれも、こころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながら、すなわちおこし、善根をば あらませど、うることあたわざる凡夫なり。かかる あさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまわんための五劫思惟の本願なるがゆえに、ただあおぎて仏智を信受するにしかず。

しかるに、善機の念仏するをば、決定往生とおもい、悪人の念仏するをば、往生不定とうたがう。本願の規模、ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おおよそ、凡夫引接(いんじょう)の無縁の慈悲をもって、修因感果したまえる別願所成の報仏報土へ、五乗ひとしくいることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとい読誦大乗解第一義の善機たりというとも、おのれが生得の善ばかりをもって、その土に往生すること、かなうべからず。

また、悪業はもとより、もろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとして、その土へのぞむべきにあらず。しかれば、機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる条、勿論なり。さればこの善悪の機のうえにたもつところの、弥陀の仏智をつのりとせずよりほかは、凡夫、いかで往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずとはいえ。

ここをもって、光明寺の(善導)大師、「言弘願者如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまえり。文のこころは、弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にのりて、増上縁とせざるはなしとなり。

されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ、悪をおそる、宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ、善にうとし。

ただ、善悪のふたつをば、過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて、機のよきあしきに、目をかけて、往生の得否をさだむべからず、となり。

これによりて、あるときのおおせにのたまわく、「なんだち念仏するより、なお往生にたやす(易)きみちあり、これをさず(授)くべし」と。「人を千人殺害したらば、やす(易)く往生すべし。おのおの、このおしえにしたがえ。いかん」と。ときにある一人、もうしていわく、「某においては、千人まではおもい(思い)よらず、一人たりというとも殺害しつべき心ちせず」と云々 

上人かさねてのたまわく、「なんじ、わがおしえを日比(日々)そむかざるうえは、いまおしうる(教える)ところにおいて、さだめてうたがいをなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべきここちせずというは、過去に、そのたね(種-業因)なきによりてなり。もし過去にそのたね(種)あらば、たとい、殺生罪をおか(犯)すべからず、おかさば、すなわち往生をとぐ(遂げる)べからずと、いましむ(戒める)というとも、たね(種)にもよおされて、かならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからいとして、現果を感ずるところなり。しかれば、まったく往生においては、善もたすけとならず、悪もさわりとならず、ということ、これをもって准知すべし。」

(カッコ内)は迷林が勝手に字をあてたものです。改行も勝手にしている所があります。

歎異抄十三条

故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。

また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、

「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、

「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、

「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。

「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」

と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。

 

今から約800年前、鎌倉時代の言葉です。いままで残っている。口伝鈔も歎異抄も聞いた言葉を書き留めているので、目の前で、親鸞聖人が話しているのを、如信さんや、唯円房が聞いているようです。原文の方が息づかいが聞こえる。

 

たしか、親鸞聖人は京なまりなんだと学んだことがある。

要望があれば、現代語訳をのせますが、いいやろ。ご門徒のおばあちゃんたちに聞いてもらいます。ただし、小出しで。

これ、遊林スルーするな。(遊林が読むことはないでしょう。)

結論ぐらい書いていいだろう。自分が善いから、悪いから、ではなくて、ただ阿弥陀仏の願い(弘願)によって往生する。たすけられる。いつでもどこでもだれでも。

では、次8%行きます。にやり