『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

HP僅か

耳下腺が腫れてきそうなので月参りを休んだ。

目から血が出そう身体がもげそうなほど忙しい。

11/9「是旃陀羅問題」学習会の案内を、昨日郵便局から発送した。

連休なので、届くのは10/11だろう。

「是旃陀羅問題」学習会チラシは、印刷を100枚ラクスルに注文して790円だった。これはとても安くてうれしくなってチラシをデザインする元気が出た。(下に貼りました。)

坊守会と門徒会と次世代の会に開催趣旨と申込締切・申込先を書く。坊守会は慶讃法要の団体参拝4/1案内も作成。坊守会と門徒会は、書記と組長が案内発送。次世代の会の案内には、以前コラボさせていただいた東京の竹川氏の【親鸞仏教オンライン学舎】と、「是旃陀羅問題」学習会チラシと開催趣旨、対象者には11/12(土)懇親会案内を同封した。今日は懇親会会場を予約しようと思う。

shinran.online

12/15公開講座私が私であるために

テーマ:「水平社創立100年」からのよびかけ

講師:訓覇浩氏

 私が幹事を務める金沢教区解放運動推進委員会主催で行われる。9/21と10/6会議で話し合い、副幹事がチラシを完成させてくださった。本当にたすかった。これまでだったらこれも私の仕事だったと思う。

 会議では、水平社創立から100年の今なぜ一人ひとりが問題にしなければならないのかということを伝えていきたいと話し合われた。

 東西本願寺とも表現されるが、大谷派がご門徒である被差別部落の方々にしてきたことは目や耳を覆いたくなるようなことがたくさんある。有名なのは差別法名をつけたことでその法名が刻まれた墓石が残っているという。字が読めないから与えられた法名を大切にしていた。墓石に刻まれた名を「それは差別法名ですよ」といってもおばあちゃんは「こぼさんがそんなことをするはずがない」といったという。詳しく伝えるとその墓石を泣きながら叩き割ったと聞いた。悲しくて涙がにじむ。真宗大谷派の教師資格を取得するための修練で部落差別を学ぶから、少なくとも教師資格を持つものは部落差別を問題にするのが当たり前だと思ってきた。でもそれは、僧侶や大谷派の問題なのではなくて、「水平社創立から100年」一人ひとりに問われていることなのだと今は思う。

 

中途半端ですがHPが20を下回っているのでこれで終わります。今日は休みます。

※HP(ヒットポイント・体力)。友人が言っていた言葉。私も以前ロールプレイングのテレビゲームをしたことがあるのでイメージがしやすかった。ゲームの登場人物は、攻撃などのダメージを受けるとこのHPが減る。眠ったり食べたりしたらHPは上がる。

彼はHPがわずかしかないといった。睡眠時間がほとんどなくて、モンスターを飲んで仕事して、忙しくて忙しくて帯状疱疹がでたらHPはどのくらいなのだろう。そういえば娘も忙しくて帯状疱疹がでたことがあった。顔に出た。だから私は今日は休む。

 

『歎異抄』第八条 念仏は行者のために、非行非善なり。  

 一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

 

歎異抄』金子大榮校注 岩波書店(53頁)

語句の意味(1)行者のために―念仏するものにとりては。

 いずれの行もおよびがたき身と知る者にも、念仏をもって、わが善とし、わが行とする心は離れない。しかしその心ほど念仏の真意に反(そむ)くものはないのである。念仏は自力の心を離れしめるものであり、他力自然にして行われるものであるからである。

 「おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号(みな)をもておのれが善根とするが故に、信を生ずることあたわず」(『教行信証』化身土巻)とは、親鸞の深く誡めたところであった。

 

毎月8日は『歎異抄』を読み進めてきました。

順番なら第四条なのですがまたの機会にします。

 

念仏は行にあらず善にあらず。自分のとなえる(行)念仏は善にならない。

自分のとなえる(行)念仏を、常に自分の手柄にするけども、

それでは、念仏の信とはいえない。

歎異抄』第八条は短い言葉だが核心をついた言葉である。

 

 

 

 

 

『歎異抄』第三条 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 

今月は『歎異抄』第三条です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」(善人でさえも往生を遂げる、まして悪人はいうまでもない。ところが、世の人々はつねにこう言う、悪人でさえ往生できる、まして善人はいうまでもないと)

親鸞聖人の教えで最も有名。高校の教科書や問題集にある言葉です。まず、原文にふれ、意訳を確認します。

【原文】


 一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

 

 

【意訳】

善人でさえも阿弥陀の浄土へ生まれることができます。まして悪人はいうまでもありません。ところが、世間一般の人々はつねにこう言います。「悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である」と。
 これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。なぜかと申しますと、自分の力をたのみにして善行を励み、それによって悟りを開こうと思っている人々は、ひとすじに他力をたのむという心が欠けているのですから、阿弥陀の本願に背いていると言わねばなりません。
 しかし、この人々も、自力をたのむ心をひるがえして、他力を信ずる身になるならば、真実の浄土に生まれるものとなるのです。
よくよくふり返ってみますと、煩いと悩みとをかけめなく身にそなえている私たちは、どのような修行に励んでみても、この迷いの人生を離れ切ることなどは決してでききません。そのような私たちを大悲のお心でみそなわして本願をおこしてくださった阿弥陀のご本心は「ただ悪人こそ仏とならしめん」ということの他にはないのです。だからこそ、他力をたのむ悪人こそが、必ず阿弥陀の浄土へ生まれることの決定(けつじょう)した人なのであります。それゆえに、善人でさえ浄土へ生まれることができるのであれば、まして悪人の往生は当然のことであると言うたのです、と教えてくださいました。
歎異抄講話1』廣瀬杲 法蔵館

 

【所感】 

高校生の問題集をみると、「親鸞がとなえた『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』の考え方をなんというか」という問題に「悪人正機説」という答えがあり、それは、煩悩をもつ大衆(悪人)こそが、阿弥陀仏の救済の対象であるという考え方だと書かれている(『日本史重要語句Check List』 啓隆社発行)。

大衆(悪人)というのがとても大事なことだと思う。

以下に、金子大榮先生の解説と、信國淳先生の言葉をお伝えします。

 

【解説】

善事をなすものは善人、悪業を離れることのできぬものは悪人である。しかしまた悪人には悪業を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善事を頼むということもあるであろう。そこに善人には自力の限界を知らざる限り、本願他力に帰するということがないという迂遠(うえん)さがある。けれども悪人は大悲の願心をきいて直下に身心に応(こた)えるものがあるであろう。まことに深重の本願である。 それ故に自力作善の人は、弥陀の本願(の正機)ではなく、他力をたのみたてまつる悪人は、最も往生の正因(を身につけしもの)である。

自力作善ー自分の力で善事を作(な)すこと。
真実報土ー真実の本願に報われたる浄土、方便化土と区別す。 

歎異抄』金子大榮校注 岩波書店

 

私たちは誰も皆自力作善の人と言わなければならないものであり、善人に、善きものに、幸せなものになろうとするその心で、善きものになろうとし、同時に他人の上にも自己自身の上にも悪しきものを作り出し、見出し、善ききものになろうとするこころで、悪人を見つけ出し、憎み蔑み、責め、さいなむ、私たちは誰も皆、自己自身が悪しき者であることを恐れる善人なのです。(『悪人成仏』信國淳法話CD)

浄土真宗・親鸞聖人に関する書籍なら 東本願寺「読みま専科 TOMOぶっく」 - 法話CD「本願に生きた念仏者」⑦悪人成仏

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親鸞聖人御真影(居多ケ浜)


 

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飛騨大鍾乳洞へ

家族旅行2日目は、朝食後に人生ゲームをして、

もちろん迷林がトップになり、

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10時近くになってからチェックアウトして、

飛騨大鍾乳洞へ

www.syonyudo.com

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鍾乳洞への扉を開けたら、30度から18度。

夏は鍾乳洞がいいね。

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丁寧に整備されて歩きやすい

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30分ほどで出口です。もっといたかったな。

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あの山の中に鍾乳洞がある

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12時半、ちょっと早いけど帰路へ。

飛騨清見ICから東海北陸道に乗って二時間くらい。

小矢部川SAでラーメンを食べ、ますの寿しを買って帰りました。桃が三個500円だったので母のお土産に。おいしくて喜ばれました。よかった。

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新穂高ロープウェイとクマ牧場

今年の家族旅行は、新穂高ロープウェイとクマ牧場にしました。

岐阜って、盆地で暑いイメージがずっとあります。

里山に住む私には、目の前の山が高くて、ずっととてもとてもきれいでした。
 

新穂高温泉駅から鍋平高原駅

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ロープウェイ

ぐんぐんと上がっていきます。

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あっという間の4分 

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鍋平高原駅には、パン屋さんや、ビジターセンター、お風呂、売店などがあります。

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売店でお土産を買って、 

鍋平高原駅に戻る頃、まさかの大雨

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新穂高温泉駅の売店で飛騨ラーメンを三人で食べました。あっさり醤油でおしいかった。

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飛騨ラーメン

雨が止んだので、クマ牧場に向かいます。

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(30年くらい前の動物園みたいだ・・・)

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クマって仕草がかわいいのです。

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クマさん達がおねだりしてくれているのは、クマさんビスケット

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ヒグマもいます

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首に三日月のような模様があるのでツキノワグマ。無いのもいます。

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ツキノワグマがいーっぱい。
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満足満足。売店でお土産を買って、

旅館へ向かいます。

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大浴場は熱め。42度か43度くらいかな。好き。

貸し切り露天風呂が4つ。予約なしで利用できます。こちらはたぶん40度以下。

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夕食は飛騨牛3種食べ比べ

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www.jalan.net

奥飛騨っていいな。旅館岐山、とてもよかった。また行きたい。

涅槃(ねはん)の真因(しんいん)は ただ信心をもってす

涅槃(ねはん)の真因(しんいん)は ただ信心をもってす

The true cause of attaining nirvana is the entrusting heart alone.
(『顕浄土真実教行証文類』「信巻」)

8月の法語|2019年の法語|真宗教団連合

 The true cause 【本当の原因】
of~ 【~の】
attaining nirvana 【涅槃の達成】
is 【は】
the entrusting heart 【心を任せること】
alone 【のみだ】

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京都御苑のアオバズク 2019.7.13

京都御苑にはアオバズクがいて、毎年4月下旬頃から10月頃まで営巣する。

環境省_御苑案内図(宗像神社のアオバズク)

アオバズクが見たくて、今年もやってきました京都御苑

 

宗像神社のクスノキの大木にいる。

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あ!

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違った。

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いつものパターンです。

小雨が降る。

それも毎度のこと。

いないよね。

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あっ

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あーーーー!(こころの声)

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しーーっ。アオバズクを驚かさないよう。

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眠った。

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ううう、涙。

五年越しの思いが叶ったのであります。

アオバズクを育んでくれてありがとうございます。

そっと見守ってくださっている方々ありがとうございます。

また来年参ります。

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よかったね、と黒猫さん。

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大きめのリュックに三脚を入れて、Nikon P1000で撮りました。

重かったけど、がんばって持っていってよかった。ほんとに。

おそらくP900でも充分撮れます。興奮して手が震えるから三脚はあったほうがいいな。アオバズクはあまり動かないから、しっかり撮れます。 

P1000の練習

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百舌鳥 オス

お兄ちゃんがモズを撮りました。

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百舌鳥 メス

上手だなぁ。

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カンムリカイツブリ 夏羽

飛んでるミサゴはあまりうまく撮れません

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迷林もがんばります 

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イノッチ いってらっしゃい

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ヒャクトリムシ うまく撮れました

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ホオアカ 幼鳥

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ホオジロ

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ノスリ

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仲良し カラス

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睡蓮

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ナメコの木 ナメコ菌が打ち込まれています 

飛んでる鳥は、うまく撮れません

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アオサギ

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シラサギ

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明日も晴れそうにないね

雨の前に7月の花を

明日から雨のようなので、今日は7月の花を撮りに行きます。

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アジサイ

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クルミ

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ウルシの仲間のヌルデ

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睡蓮

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蓮華

睡蓮や蓮華は午前中じゃないと咲いていません。

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オオヨシキリ

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夾竹桃

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ヒャクニチソウ

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マリーゴールド

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ネムノキ

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アオサギ

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イノッチ

 

「阿弥陀仏に願われていることが難しい」

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 私も、45歳を過ぎて涙もろくなったのか。おそらく娘は、ずっとそうだ、というだろうけど。

 妹が、報恩講の夜に、大きな目を見開いて、「難しいんだ」と言った。私はすぐさまそれに同調したのだけど、ずっとそのことが大事でしょうがなかった。「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」

 親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。


 私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えを通して、阿弥陀仏大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。


 常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「貪むさぼり」(貪愛とんない)と「憎しみ」(瞋憎しんぞう)によって、私どもは、その事実に眼をそむけているのです。
 摂取心光常照護 已能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
正信偈の教え』古田和弘著 東本願寺出版

 私の妹が言っていたのはこれだった。そう思って涙がこぼれた。親鸞聖人は、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」という言葉をたくさん残してくれている。だから私は難しいことも、わからないことも、それを喜べないことも、安心していられる。

  仏智うたがうつみふかし
   この心おもいしるならば
   くゆるこころをむねとして
   仏智の不思議をたのむべし

   親鸞聖人『正像末和讃』(「疑惑和讃」)(「誡疑讃」)

 

と、ラインに書いて、この親鸞聖人の御和讃を、鎌倉時代の言葉を、高校生の姪と遊林に現代語に訳してもらうことにした。

19:21 めいちい

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです。
  教えを知ろうとするならば、
  苦の心を旨として、
  仏の智慧の不思議さを知ろうとするべし。

19:21 めいちい

  めっちゃ難しい!😅 それっぽく訳してみた笑

19:49 迷林

  めいちいちゃんすばらしい。正しいところもあるけど大事なところが違う。とてもいい。遊林も訳してみて!

20:26 遊林

  仏の智を疑う罪は深い
  このことを十分理解するならば
  思い悩むこころを中心として
  仏の智の不思議を頼みにせよ

 20:26 遊林

  不思議ってなに・・・

 20:35 迷林

  うんうん。遊林もすばらしい

 

 「仏智」は、めいちいちゃんの訳のように、「仏の智慧」と訳されるのことが多い。
一行目は二人とも正しい。「仏の智慧を疑うのは罪深いことです」。

 二行目「この心おもいしるならば」は、「この心を思い知るならば」です。
めいちいちゃんの訳はまだ知っていない。遊林は正解に近いけど、
問題は「この心」とはなにか。思い知るのは「私」。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ではなく、「仏智」そのものです。別の言葉で言うと「仏の心」そのものだと思います。
それが、私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということです。
この「阿弥陀仏に願われていること」が仏智です。また「仏智(阿弥陀仏智慧)」は、照らされ護られるものです。

 三行目「くゆるこころをむねとして」は、「悔いるこころを宗(中心)として」です。
私はこの言葉がとても好きです。「悔いる」ということしかないからです。

 四行目「仏智の不思議をたのむべし」は、「たのむべし」が理解できなかったようです。
「頼む」でも間違いではないと思いますが、「知る」という意味は無いと思います。
「たのむ」は「憑む」と書きます。ただし古語辞典にはありません。
親鸞聖人は、「頼む」とは書かずに「憑む」と書きます。
仏の智慧は「不思議」。思議は、考えるという意味。不思議は、考えることが出来ないという意味。

 「たのむ」というのは、南無阿弥陀仏の「南無」です。
正信偈』のはじめに「南無不可思議光(仏)」という言葉がありますが、
それは「不可思議光仏に(私を)おまかせします」という意味です。

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです
  この(仏の)心を思い知るならば
  悔いるこころを宗(中心)として
  仏の智慧の不思議をたのみなさい
  考えることが出来ない仏の智慧におまかせしなさい
  =南無阿弥陀仏

一晩考えた。

仏智うたがうつみふかし
 この心おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

いろいろ考えたけど、やっぱり迷林間違っていました。
二行目の「この心」は、「この中身」「この意味」ということなので、
遊林が訳したように「このことを」で正解。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ことです。やっぱり。ごめんなさい。

私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということが、「仏智を疑う罪は深い」ということです。

 迷林訳 仏智を疑う罪は深い
     この意味を理解するならば
     悔いるこころを宗(中心)として
     仏智の不思議をたのむべし
     不可思議光仏の智慧におまかせしなさい

智慧は慈悲としてわたしたちにはたらく。
親鸞聖人は、智慧にもとづいた慈悲の心を「摂取の心光」といい、
「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護たまう)と書かれている。
不可思議光仏は阿弥陀仏のこと。

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長くなりました。