『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり
The tradition of the true Pure Land teaching speaks of birth through the Nembutsu.
(『一念多念文意』 p.545)

7月の法語|2019年の法語|真宗教団連合

 


The tradition 【伝統】
of~ 【~の】
the true Pure Land 【浄土真宗】 

teaching 名詞【〔宗教などの〕教え、教義】
speaks 【話す】
of birth  名詞 【生まれる】 
through 【(前置詞)~を使って、~を手段として】
the Nembutsu 【念仏】

 

『一念多念文意』とは

吉水教団(法然上人を中心とする教団)の法友として親鸞聖人が敬愛されていた長楽寺の隆寛律師には「自力他力の事」「後世物語聞書」「一念多念分別の事」などの著書があります。親鸞聖人はこれらの著作をみずから書きうつされたり、たびたび関東の門弟たちにもすすめられたといわれています。いま聖人の「一念多念文意」は、この「一念の多念分別の事」にならい、そこに引かれた経文や高僧方のことばを、正しい念仏の伝統にてらして聖人御自身が解釈されてその意味を明らかにされたものであります。当時法然上人のお弟子たちは、それぞれに自分の考えを主張されたので、いろいろの異義(信心が異なること)が生まれ、あらそいが起こりましたが、その一つにこの一念多念文意の問題もありました。これは念仏を称えることについての一念か多念か、つまり一念でいいのか、それとも多念仏でなければならぬのかという問題であります。

第24回 一念多念文意|やさしい聖典道しるべ|読むページ|教えにふれる|お東ネット 東別院

 

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり」
という言葉は、『一念多念文意』の最後に、出てきます。

おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。
 南無阿弥陀仏
 いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえしかきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかえりみず、ひとすじにおろかなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。
   康元二歳丁巳二月十七日
    愚禿親鸞 八十五歳 書之

『一念多念文意』親鸞


おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。


おもうように申すことは出来ないけれども、これで(ここにお伝えしたことで)、一念・多念をあらそうはずがないことは、おしはかってください。浄土真宗の教えは、念仏往生ともうします。まったく、一念往生・多念往生と申すことはありません。このようにご理解ください。
南無阿弥陀仏

(迷林遊林現代語訳) 

「ならい」は、「ならひ」。言い伝えられていること等の意味がある。

 

念仏は十称えてたったでなし一称えてたらんでなし

と、小さな頃から目にしてきた。なにを見たのかは覚えてはいない。


『一念多念文意』とはなにか、ということは、名古屋別院HPにある仲野了俊先生の言葉で、そこに書かれていることがなんとか理解できそうで、うれしい。名古屋別院ありがとう。すでに冊子になっている言葉なので、ネットにアップするのは難しくはないけど、地道な作業だったと思う。金沢別院HPもこんな記事があるといいのに。すごくもったいない。

 

なんか、すっきりしないので、もうちょっとがんばって、鈴木大拙が『教行信証』を英訳した「SINRAN’S KYOGYOSHINSHO(オックスフォード大学発行)」を開いて、
浄土真宗」と「念仏往生」を探した。骨が折れた。
でも、この本を開く機会をいただくことに感謝する。

 

謹んで浄土真宗を案ずるに(『教行信証』教巻 p.152)

AS I RESPECTFULLY reflect on the true doctrine of the Pure Land.

わたくし[親鸞]が、敬意を持って、<清浄な国土>の真実の教理を推察すると、

 

as I 【するとき】
respectfully 【うやうやしく】
reflect on 【熟考する】
the true doctrine of the Pure Land 【浄土真宗

 

この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。(『教行信証』信巻 p.211)

This mind indeed is no other than the one that is born of the Prayer welled by Nyorai in order to effect our birth in the Pure Land by means of the nenbutsu.

この心は、<覚った方>を念じることによって、われわれを<清浄な国土>へ生まれさせるために、<真実の世界から現れた方>が特に選び取った《悲願》から生まれたもの、まさにそれに他ならない。

 

This mind 【この心】
indeed 【実に、】
is 動詞【は、】
no other than 【より他にない】 特に選び取った
the one that 【それ】
is born of 【生まれる】(生まれさせるではないと思う)

Prayer  【念じるもの】
welled 【もたらされた、湧き出た】
the Prayer welled by Nyorai【如来から念じることをもたらされた】

in order to 【~ために】
effect 【果たす】
in order to effect our birth in the Pure Land 【私たちが浄土に生まれることを果たすために】
by means of the nenbutsu. 【これは、念仏を意味する】


This mind indeed is no other than the one that is born of the Prayer welled by Nyorai in order to effect our birth in the Pure Land by means of the nenbutsu.

この心は、私たちが浄土に生まれることを果たすために、如来が念じることを特に選び取りもたらされた(願)。これは、念仏を意味する。(遊林訳)

この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。(『教行信証』信巻 p.211)

 

※頁数は、『真宗聖典東本願寺発行
英文 鈴木大拙英訳『教行信証』「SINRAN’S KYOGYOSHINSHO」(オックスフォード大学発行)
英文の訳 鈴木大拙英訳『教行信証』の現代日本語訳(東本願寺出版)

 

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