お散歩道草 osanpomichikusa 

-続迷林遊林航海記

京都御苑のアオバズク 2019.7.13

京都御苑にはアオバズクがいて、毎年4月下旬頃から10月頃まで営巣する。

環境省_御苑案内図(宗像神社のアオバズク)

アオバズクが見たくて、今年もやってきました京都御苑

 

宗像神社のクスノキの大木にいる。

f:id:meirin41:20190713170051j:plain

f:id:meirin41:20190713170046j:plain

f:id:meirin41:20190713170204j:plain


あ!

f:id:meirin41:20190713170946j:plain

違った。

f:id:meirin41:20190713170953j:plain

いつものパターンです。

小雨が降る。

それも毎度のこと。

いないよね。

f:id:meirin41:20190713171343j:plain

あっ

f:id:meirin41:20190713171407j:plain

あーーーー!(こころの声)

f:id:meirin41:20190713173340j:plain

しーーっ。アオバズクを驚かさないよう。

f:id:meirin41:20190713171751j:plain

f:id:meirin41:20190713171624j:plain

眠った。

f:id:meirin41:20190713172526j:plain

f:id:meirin41:20190713172511j:plain

ううう、涙。

五年越しの思いが叶ったのであります。

アオバズクを育んでくれてありがとうございます。

そっと見守ってくださっている方々ありがとうございます。

また来年参ります。

f:id:meirin41:20190713173945j:plain

よかったね、と黒猫さん。

f:id:meirin41:20190713174820j:plain

大きめのリュックに三脚を入れて、Nikon P1000で撮りました。

重かったけど、がんばって持っていってよかった。ほんとに。

おそらくP900でも充分撮れます。興奮して手が震えるから三脚はあったほうがいいな。アオバズクはあまり動かないから、しっかり撮れます。 

P1000の練習

f:id:meirin41:20190712155028j:plain

百舌鳥 オス

お兄ちゃんがモズを撮りました。

f:id:meirin41:20190712155822j:plain

百舌鳥 メス

上手だなぁ。

f:id:meirin41:20190712160626j:plain

カンムリカイツブリ 夏羽

飛んでるミサゴはあまりうまく撮れません

f:id:meirin41:20190712155505j:plain

迷林もがんばります 

f:id:meirin41:20190712165839j:plain

f:id:meirin41:20190712165938j:plain

f:id:meirin41:20190712165855j:plain

f:id:meirin41:20190712170005j:plain

イノッチ いってらっしゃい

f:id:meirin41:20190712170711j:plain

ヒャクトリムシ うまく撮れました

f:id:meirin41:20190712171823j:plain

ホオアカ 幼鳥

f:id:meirin41:20190712171941j:plain

ホオジロ

f:id:meirin41:20190712175631j:plain

ノスリ

f:id:meirin41:20190712172928j:plain

仲良し カラス

f:id:meirin41:20190712181314j:plain

睡蓮

f:id:meirin41:20190712172504j:plain

ナメコの木 ナメコ菌が打ち込まれています 

飛んでる鳥は、うまく撮れません

f:id:meirin41:20190712171557j:plain

アオサギ

f:id:meirin41:20190712174320j:plain

シラサギ

f:id:meirin41:20190712181421j:plain

明日も晴れそうにないね

「阿弥陀仏に願われていることが難しい」

f:id:meirin41:20190709115936j:plain

 私も、45歳を過ぎて涙もろくなったのか。おそらく娘は、ずっとそうだ、というだろうけど。

 妹が、報恩講の夜に、大きな目を見開いて、「難しいんだ」と言った。私はすぐさまそれに同調したのだけど、ずっとそのことが大事でしょうがなかった。「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」

 親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。


 私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えを通して、阿弥陀仏大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。


 常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「貪むさぼり」(貪愛とんない)と「憎しみ」(瞋憎しんぞう)によって、私どもは、その事実に眼をそむけているのです。
 摂取心光常照護 已能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
正信偈の教え』古田和弘著 東本願寺出版

 私の妹が言っていたのはこれだった。そう思って涙がこぼれた。親鸞聖人は、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」という言葉をたくさん残してくれている。だから私は難しいことも、わからないことも、それを喜べないことも、安心していられる。

  仏智うたがうつみふかし
   この心おもいしるならば
   くゆるこころをむねとして
   仏智の不思議をたのむべし

   親鸞聖人『正像末和讃』(「疑惑和讃」)(「誡疑讃」)

 

と、ラインに書いて、この親鸞聖人の御和讃を、鎌倉時代の言葉を、高校生の姪と遊林に現代語に訳してもらうことにした。

19:21 めいちい

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです。
  教えを知ろうとするならば、
  苦の心を旨として、
  仏の智慧の不思議さを知ろうとするべし。

19:21 めいちい

  めっちゃ難しい!😅 それっぽく訳してみた笑

19:49 迷林

  めいちいちゃんすばらしい。正しいところもあるけど大事なところが違う。とてもいい。遊林も訳してみて!

20:26 遊林

  仏の智を疑う罪は深い
  このことを十分理解するならば
  思い悩むこころを中心として
  仏の智の不思議を頼みにせよ

 20:26 遊林

  不思議ってなに・・・

 20:35 迷林

  うんうん。遊林もすばらしい

 

 「仏智」は、めいちいちゃんの訳のように、「仏の智慧」と訳されるのことが多い。
一行目は二人とも正しい。「仏の智慧を疑うのは罪深いことです」。

 二行目「この心おもいしるならば」は、「この心を思い知るならば」です。
めいちいちゃんの訳はまだ知っていない。遊林は正解に近いけど、
問題は「この心」とはなにか。思い知るのは「私」。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ではなく、「仏智」そのものです。別の言葉で言うと「仏の心」そのものだと思います。
それが、私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということです。
この「阿弥陀仏に願われていること」が仏智です。また「仏智(阿弥陀仏智慧)」は、照らされ護られるものです。

 三行目「くゆるこころをむねとして」は、「悔いるこころを宗(中心)として」です。
私はこの言葉がとても好きです。「悔いる」ということしかないからです。

 四行目「仏智の不思議をたのむべし」は、「たのむべし」が理解できなかったようです。
「頼む」でも間違いではないと思いますが、「知る」という意味は無いと思います。
「たのむ」は「憑む」と書きます。ただし古語辞典にはありません。
親鸞聖人は、「頼む」とは書かずに「憑む」と書きます。
仏の智慧は「不思議」。思議は、考えるという意味。不思議は、考えることが出来ないという意味。

 「たのむ」というのは、南無阿弥陀仏の「南無」です。
正信偈』のはじめに「南無不可思議光(仏)」という言葉がありますが、
それは「不可思議光仏に(私を)おまかせします」という意味です。

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです
  この(仏の)心を思い知るならば
  悔いるこころを宗(中心)として
  仏の智慧の不思議をたのみなさい
  考えることが出来ない仏の智慧におまかせしなさい
  =南無阿弥陀仏

一晩考えた。

仏智うたがうつみふかし
 この心おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

いろいろ考えたけど、やっぱり迷林間違っていました。
二行目の「この心」は、「この中身」「この意味」ということなので、
遊林が訳したように「このことを」で正解。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ことです。やっぱり。ごめんなさい。

私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということが、「仏智を疑う罪は深い」ということです。

 迷林訳 仏智を疑う罪は深い
     この意味を理解するならば
     悔いるこころを宗(中心)として
     仏智の不思議をたのむべし
     不可思議光仏の智慧におまかせしなさい

智慧は慈悲としてわたしたちにはたらく。
親鸞聖人は、智慧にもとづいた慈悲の心を「摂取の心光」といい、
「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護たまう)と書かれている。
不可思議光仏は阿弥陀仏のこと。

f:id:meirin41:20190709115942j:plain

f:id:meirin41:20190709115924j:plain

長くなりました。 

歎異抄第二条 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり

途中で放りだしてしまった、歎異抄第二条。一ヶ月探しながら反面逃げていた。
親鸞聖人は、自分のところにまで念仏を伝えてくれた諸先輩方七人を「七高僧」と呼ばれ、『正信偈』のなかに、「龍樹」「天親」「曇鸞」「道綽」「善導」「源信」「源空(法然)」と名を挙げられて各師からいただいたことを簡潔に述べられている。そのなかでも「善導」が重要なのだと、最近思うようになってきた。『正信偈』の「善導ひとり仏の正意をあらわせり」の言葉は、伝統の中で、特に区切って目立たせて大事にお勤めする。このことをなんとか言葉にしたいのだけど、力及ばず、今日にいたります。

歎異抄第二条後半 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり


【迷林所感】
(前回の続き)
そのゆえは、念仏以外の行を励み、仏になる身が、念仏を申して、地獄におちたということであれば、(法然上人に)だまされた、という後悔もあるでしょう。

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(けれども)どのような行も間に合わない身ですので、地獄だけが私の在り家です。

阿弥陀仏の本願が真にあるなら、釈尊の説教は、虚しい言葉ではない。釈尊の説教が真にあるなら、善導の釈尊の説教の御釈は、虚しい言葉ではない。善導の御釈が真であれば、法然のおっしゃっていたことはうそいつわりではありません。法然のおっしゃっていたことが真実であるなら、親鸞がもうすことは、また(同じであるから)、空しい無駄なことではないでしょう。

考えるところ、愚かな私の信心においてはこのようなことです。このうえは、念仏をとり信じたてまつろうとも、またすてても、それぞれのお考えです。とおっしゃいました。


歎異抄 二 
 一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

f:id:meirin41:20190709120002j:plain

 

【正信偈の教え】7  摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

f:id:meirin41:20190710150134j:plain

【原文】
摂 取 心 光 常 照 護  
已 能 雖 破 無 明 闇
貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧  
常 覆 真 実 信 心 天
譬 如 日 光 覆 雲 霧
雲 霧 之 下 明 無 闇
【読み方】
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常に照(しょう)護(ご)したまう。
すでによく無(む)明(みょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、
貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、
常に真実信心(しんじん)の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲(うん)霧(む)に覆(おお)わるれども、
雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし。

・常に照らされている私の事実
 「摂取(せっしゅ)」というのは、阿弥陀仏が私たちを摂(おさ)め取ってくださること、すなわち、救い取ろうとしてくださっていることです。そして、その「摂取」ということは、「心光」によることとされています。「心光」は、阿弥陀仏大慈悲心の光です。
 「光」は、多くの場合、仏の「智慧(ちえ)」のはたらきのことをいいます。私どもは、自分の思いにこだわり続けていますから、本当のことがわからず、ものの道理についてまったく「無知」なのです。しかも、道理がわかっていないのに、わかっていると思いこんでいるのです。つまり、わかっていないこと、そのこと自体が、実はわかっていないのです。
 そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。しかし、暗闇が、どこか他の所へ移動していって、そこが暗闇でなくなるのではありません。「光」のはたらきを受けて、同じ暗闇そのものが、そのまま暗闇でなくなるのです。私どもの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。
 その「智慧」が完全にはたらくときには、それは「慈悲」となって私どもにはたらきかけているのです。言い換えれば、私どもに差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。その光は、「常に照護したまう」と言われています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。
 親鸞聖人は、「常(じょう)照(しょう)護(ご)」を「照護(しょうご)したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。
・信心を覆うもの
 この光に照らされているという事実によって、「すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども」とありますように、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を知見(ちけん)する智慧(ちえ)の明るさが欠けている状態です。それが凡夫(ぼんぶ)の迷いの根本となる煩悩なのです。
「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡(ぐち)」というすがたをとってはたらきます。「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。
 このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。
 ところが、「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。
 「貪愛(とんない)」は「貪欲(とんよく)」とも言われますが、しがみつく愛着・欲望です。私どもは、しがみつくべきでないものにしがみついてしまいます。それは無知によって起こる心の動きです。無知ですから、しがみつけば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。
 「瞋憎(しんぞう)」は「瞋(しん)恚(に)」とも言われます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。ときには、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。
 せっかく阿弥陀仏大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。
 「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。
・信心を覆うとも
 阿弥陀仏は、大慈悲心によって、「真実信心」を私どもに差し向けて回向(えこう)してくださっています。煩悩の泥にまみれている私が、自分の考えや都合によって引き起こす信心であれば、それは「真実信心」ではありませんが、阿弥陀仏が私に施与(せよ)してくださっている信心ですから、それは「真実信心」なのです。
 そのような「真実信心」を私どもは、心に起こす貪り「貪愛」や憎しみ「瞋憎」などの煩悩よって、せっかくの「真実信心」を覆い隠して、それを自分から遠ざけているのです。
 しかし、「真実信心」を見失っているからといって、「真実信心」が私のところに届かなくなっているのかというと、そうではないと、親鸞聖人は教えておられます。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。
 私どもは、雲や霧がなくなったとき、初めて日光の恩恵を受けるかのように錯覚しますが、実はそうではないのです。雲や霧が立ちこめているときでも、日光の恩恵を受けているのです。煩悩がなくなったとき、大慈悲心、つまり「真実信心」に気づかされるのではありません。取り除き難い煩悩にまみれながら、「真実信心」に目覚めることがあるのです。煩悩が決して信心の妨げにはならないということでしょう。
 むしろ、日光の輝きによって、雲や霧のありさまが、はっきりと確かめられます。ちょうどそのように、常に私を照護し続ける阿弥陀仏大慈悲心によって、かえって、貪りや憎しみの心に支配されている自分の実態が、どのようなものであるかを思い知らされるのではないでしょうか。「真実信心」に背を向けている自分の姿が映し出されてくるのではないでしょうか。
 そのようなことを、親鸞聖人は、私どもに教えようとなさっているように思うのです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

参考:正信偈の教え-みんなの偈- | 東本願寺

 

8/4に御講があるので、事前勉強いたしました。

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり
The tradition of the true Pure Land teaching speaks of birth through the Nembutsu.
(『一念多念文意』 p.545)

7月の法語|2019年の法語|真宗教団連合

 


The tradition 【伝統】
of~ 【~の】
the true Pure Land 【浄土真宗】 

teaching 名詞【〔宗教などの〕教え、教義】
speaks 【話す】
of birth  名詞 【生まれる】 
through 【(前置詞)~を使って、~を手段として】
the Nembutsu 【念仏】

 

『一念多念文意』とは

吉水教団(法然上人を中心とする教団)の法友として親鸞聖人が敬愛されていた長楽寺の隆寛律師には「自力他力の事」「後世物語聞書」「一念多念分別の事」などの著書があります。親鸞聖人はこれらの著作をみずから書きうつされたり、たびたび関東の門弟たちにもすすめられたといわれています。いま聖人の「一念多念文意」は、この「一念の多念分別の事」にならい、そこに引かれた経文や高僧方のことばを、正しい念仏の伝統にてらして聖人御自身が解釈されてその意味を明らかにされたものであります。当時法然上人のお弟子たちは、それぞれに自分の考えを主張されたので、いろいろの異義(信心が異なること)が生まれ、あらそいが起こりましたが、その一つにこの一念多念文意の問題もありました。これは念仏を称えることについての一念か多念か、つまり一念でいいのか、それとも多念仏でなければならぬのかという問題であります。

第24回 一念多念文意|やさしい聖典道しるべ|読むページ|教えにふれる|お東ネット 東別院

 

浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり」
という言葉は、『一念多念文意』の最後に、出てきます。

おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。
 南無阿弥陀仏
 いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえしかきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかえりみず、ひとすじにおろかなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。
   康元二歳丁巳二月十七日
    愚禿親鸞 八十五歳 書之

『一念多念文意』親鸞


おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・多念往生ともうすことなし。これにてしらせたまうべし。


おもうように申すことは出来ないけれども、これで(ここにお伝えしたことで)、一念・多念をあらそうはずがないことは、おしはかってください。浄土真宗の教えは、念仏往生ともうします。まったく、一念往生・多念往生と申すことはありません。このようにご理解ください。
南無阿弥陀仏

(迷林遊林現代語訳) 

「ならい」は、「ならひ」。言い伝えられていること等の意味がある。

 

念仏は十称えてたったでなし一称えてたらんでなし

と、小さな頃から目にしてきた。なにを見たのかは覚えてはいない。


『一念多念文意』とはなにか、ということは、名古屋別院HPにある仲野了俊先生の言葉で、そこに書かれていることがなんとか理解できそうで、うれしい。名古屋別院ありがとう。すでに冊子になっている言葉なので、ネットにアップするのは難しくはないけど、地道な作業だったと思う。金沢別院HPもこんな記事があるといいのに。すごくもったいない。

 

なんか、すっきりしないので、もうちょっとがんばって、鈴木大拙が『教行信証』を英訳した「SINRAN’S KYOGYOSHINSHO(オックスフォード大学発行)」を開いて、
浄土真宗」と「念仏往生」を探した。骨が折れた。
でも、この本を開く機会をいただくことに感謝する。

 

謹んで浄土真宗を案ずるに(『教行信証』教巻 p.152)

AS I RESPECTFULLY reflect on the true doctrine of the Pure Land.

わたくし[親鸞]が、敬意を持って、<清浄な国土>の真実の教理を推察すると、

 

as I 【するとき】
respectfully 【うやうやしく】
reflect on 【熟考する】
the true doctrine of the Pure Land 【浄土真宗

 

この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。(『教行信証』信巻 p.211)

This mind indeed is no other than the one that is born of the Prayer welled by Nyorai in order to effect our birth in the Pure Land by means of the nenbutsu.

この心は、<覚った方>を念じることによって、われわれを<清浄な国土>へ生まれさせるために、<真実の世界から現れた方>が特に選び取った《悲願》から生まれたもの、まさにそれに他ならない。

 

This mind 【この心】
indeed 【実に、】
is 動詞【は、】
no other than 【より他にない】 特に選び取った
the one that 【それ】
is born of 【生まれる】(生まれさせるではないと思う)

Prayer  【念じるもの】
welled 【もたらされた、湧き出た】
the Prayer welled by Nyorai【如来から念じることをもたらされた】

in order to 【~ために】
effect 【果たす】
in order to effect our birth in the Pure Land 【私たちが浄土に生まれることを果たすために】
by means of the nenbutsu. 【これは、念仏を意味する】


This mind indeed is no other than the one that is born of the Prayer welled by Nyorai in order to effect our birth in the Pure Land by means of the nenbutsu.

この心は、私たちが浄土に生まれることを果たすために、如来が念じることを特に選び取りもたらされた(願)。これは、念仏を意味する。(遊林訳)

この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。(『教行信証』信巻 p.211)

 

※頁数は、『真宗聖典東本願寺発行
英文 鈴木大拙英訳『教行信証』「SINRAN’S KYOGYOSHINSHO」(オックスフォード大学発行)
英文の訳 鈴木大拙英訳『教行信証』の現代日本語訳(東本願寺出版)

 

f:id:meirin41:20190710144249j:plain

 

ひろしま「遊学の森」でオオルリを撮る

島根に用事が出来たので、広島に寄りました。

バードウォッチング – ひろしま遊学の森 広島県緑化センター・広島県立広島緑化植物公園

パラダイスでしたよ。大興奮。

ゲートをくぐってすぐ、たくさん鳥の声がします。

サンコウチョウ」「コゲラ」に「ヤマガラ」「エナガ」・・・、聞いたことのない声も。

f:id:meirin41:20190625093525j:plain

コゲラ

f:id:meirin41:20190625094130j:plain

エナガ

f:id:meirin41:20190625105441j:plain

ヤマガラ

サンコウチョウ」の声がずっと響き渡る中、車を停めて歩く。

f:id:meirin41:20190625095510j:plain

f:id:meirin41:20190625100728j:plain

f:id:meirin41:20190625093831j:plain

f:id:meirin41:20190625101022j:plain

f:id:meirin41:20190625101132j:plain

f:id:meirin41:20190625102057j:plain

なんてなんていいところ。涼しくて風の気持ちいいこと!(駐車場にはトイレもあります)

サンコウチョウ」は近くで声はすれども撮れません・・・

f:id:meirin41:20190625104835j:plain

キセキレイ」が車道をトコトコ歩く

f:id:meirin41:20190625105801j:plain

キセキレイ

あちこち鳥がいます。

f:id:meirin41:20190625115408j:plain

f:id:meirin41:20190625122006j:plain

f:id:meirin41:20190625111024j:plain

魚を撮っていたと思ったら、お兄ちゃんは山を登っていきました。

f:id:meirin41:20190625123109j:plain

そしてオオルリを撮ったのであります。

f:id:meirin41:20190625114944j:plain

オオルリオス

f:id:meirin41:20190625115213j:plain

f:id:meirin41:20190625123158j:plain

「お兄ちゃんだけいいなぁ」としょげていたら「そんな口をとがらせなくてもいいよ、迷林はオオルリのメスを撮ったんだよ」とお兄ちゃんがいった。うん。たしかに。

f:id:meirin41:20190625115451j:plain

オオルリメス

本当に本当に素敵なところでした。家から車で約8時間のところではあるけれど、また行きたいです。

f:id:meirin41:20190625123255j:plain

景色の写真と、オオルリメスは迷林(D5500)

コゲラエナガヤマガラキセキレイオオルリオス、魚はお兄ちゃん(P1000)

歎異抄第二条 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。

歎異抄第二条
二 東国から上洛(じょうらく)した弟子たちには、おそらく「念仏は地獄の業である」いう説に惑わされたものがあったのであろう。それに対して親鸞は、念仏は浄土に生まれる種であるか地獄におちる業であるか知らないと答える。それは信心は知識でないことを思い知らしめるものである。さらに「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という。そこに自身の現実があるかぎり、法然上人に欺かれたとしても後悔はない。いのちをかけての信心である。
 弥陀の本願は、この「いづれの行も及びがたき」我らのために発起せられ、釈尊はその願意を承(う)けて、極重の悪人も念仏の救われることを説きたもうた。善導はその教説(『観無量寿経』)によって、ただ仏語を信じて念仏するのほかなしと解釈し、それが「偏に善導一師に依る」という法然のおおせとなった。親鸞はただその法然のおおせを信ずるのみである。真実を証明するものは、仏(釈尊)祖(善導・法然)の伝統であって、自身の見解ではない。もし自身の見解を取って仏祖の伝統を捨てることとなれば、念仏の信心はありえないのである。
歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店

 ・

親鸞聖人に会いに、関東から京都に訪ねてきた人たちがいた。当時の旅は命がけ。その命がけで来た人たちに、聖人は「ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」といった。「どうしたら極楽に往生できるのかを聞きに来たのでしょう。」「念仏の他に往生の道を、私親鸞が知っていて、またそのためのお経等を知っていると、思われるのは大きな誤りです。」「もしそうだとしたら、興福寺東大寺等の諸寺、比叡山では延暦寺三井寺両寺にも、すぐれた学者がいらっしゃいますから、その方たちにお会いになって、往生の要をよくよくきかれたらよいかと思います。」「親鸞においては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、師法然上人ののおおせをいただいて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねになるのか、また、地獄におつべき業になるのか、総じてもってわかりません。たとえ、法然上人にだまされて、念仏して地獄におちたりとも、後悔はいたしません。」(続く)

 

 

 


 一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

f:id:meirin41:20190618173028j:plain

モリアオガエル


 

f:id:meirin41:20190618172936j:plain

 

 

 

無碍の光明 信心の人を つねにてらしたもう

無碍の光明 信心の人を つねにてらしたもう

Unhindered light constantly illumines the person of the entrusting heart.
『尊号真像銘文』

6月の法語|2019年の法語|真宗教団連合

 

Unhindered【妨げられていない】

light【光は 】

constantly  【常に】

illumines【照らす 】

the person of the entrusting heart【「心を任せている」人】

妨げられていない光は、心を任せている人を、常に照らす

「ofは前置詞だから、後には名詞が続く。entrustは【任せる】という動詞だから、それを名詞にするには、ingの形にしてentrusting にする。」とメガネをきゅっとあげて遊林がいった。

「信心の人」を、「心を任せている人」と訳しているのは興味深い。

南無阿弥陀仏」の「南無」の意味を伝えるときにも、同じように「心をまかせる」という表現をする。「信心の人」ということを、もう少し踏み込んで訳すなら「阿弥陀仏に心を任せている人」になると思う。

Unhindered light constantly illumines the person of the entrusting heart to Amida Buddha. 

 

「常に照らす」ということは、「光明の中に摂(おさ)め取る」ということでもある。それを阿弥陀となづける。「念仏者(信心の人)は阿弥陀仏の光明の中に自身を見出す」と、金子大栄先生が書かれている。

念仏するものを光明の中に摂(おさ)め取りたもう。それを阿弥陀と名づく。これ即ち阿弥陀は念仏者にその徳を現わし、念仏者は阿弥陀仏の光明の中に自身を見出すのである。『歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店

 

f:id:meirin41:20190601144437j:plain

富山県氷見市 雨晴海岸

【キャプション】を付けるには

編集サイドバーにある「写真を投稿」タブから写真を貼り付ける際、「貼り付け時に詳細を設定する」にチェックが入っている状態で「選択した写真を貼り付け」をクリックします。「写真の詳細設定」ウィンドウが開くので、キャプションを入力して、「記事編集画面に貼り付ける」をクリックしてください。

画像を貼り付ける際に、キャプション(説明文)を付けられるようにしました - はてなブログ開発ブログ