『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

わたしの十八番

年末に寝っ転がってテレビを観ていたら、「わたしの十八番」と聞こえてむっくり起きた。よくある懐かしの歌謡曲番組の視聴者からのコメント。私にとっては久しぶりの響きだった。

そして直感した。絶対(大経)十八願に関係あるはずだ。

なんでいままでちっとも気に留めることがなかったのか、なぜ今回気になったのか、さっぱりわからないけれど、ipad起動。彼はこんなときにものすごく有能。そしてウィキペディア、大好き! 「十八番」↓ほらね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%AA

十八番(じゅうはちばん、おはこ)とは、もっとも得意な芸や技のこと。

〈語源の一つ〉阿弥陀如来になる修行をしている時に立てられた48種類の誓い(弥陀の48願)の十八番目が「念仏をする人達を必ず救済する」というものであり、これが他の諸仏の立てられた誓いより突出している(すべての生けとし生けるものすべてを救う)ことから、十八番が得意なものの代名詞となった。(ウィキペディアより)

うん、理解はできるけど、ちょっと言葉が美しくない。なぜかというと、阿弥陀如来の18番目の願への感激がない。微妙に違ってさえいやしないか。

阿弥陀如来の18番目の願が、諸仏の立てられた誓いや、阿弥陀仏の他の47の願に突出して優れてる、ということ。

それは「すべての生けとし生けるものすべてをすくいたいという願い」であるというんだね。これすごいことなんだよ。クズな私もそこに救われるものとして含まれる感覚。佐野さんふうにいうと、「これまでしたことが一切問われないでたすかっていく事実がある。」時も場所も人も選ばない。過去も未来もいまも問われない。いかに優れているかは言葉で尽くせないくらいなんだよ。ここがはっきり表現できないと、他に優れて18願であることがうなずけないと思う。

むしろ言葉が残っていることに感謝しなくては。早速遊林に伝えたいのでちと丁寧に。

でもウィキペディア、大好き!

あ、念仏わすれちゃいけないんだけどね。

一八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(「仏説無量寿経」18願)

たとえ我、仏にならんとするときに、十方の衆生(いきとしいけるもの)が、至心信楽し、我が国(阿弥陀仏の浄土に)生まれようと欲(おも)い、念仏して、もし(我が国阿弥陀仏の浄土に)生まれないなら、正覚を取らない。(仏にならない。)

唯(ただ)し、五逆を犯すものと、正法を誹謗(そしるそしる)するものを除く。

・・・自信無くて避けてきた意訳。現代に合うようにしようとすると、言葉足らずだったり、多すぎたり、ニュアンスちょっと違ったり。こんなときに「至心信楽」という表現がいかに的確か思い知らされる。表現が多いということは違いの一つ一つにねがいがある歴史を感じる。

ちなみに18願に願名(がんめい)がある。いっこにしぼれなかったのにはわけがあろう。

念仏往生、

選択本願(せんじゃくほんがん)、

本願三心、

至心信楽

往相回向

※三心は至心、信楽、欲生我国

・・・「他に優れて18願」、2000年生まれに伝えることができる気がしない。