四
一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々『歎異抄』第四条 p628
意訳:
ひとつ、 慈悲に、「聖道」と「浄土」の変わり目があります。「聖道の慈悲」というのは、ものを哀れみ(かわいそうに思って)、悲しみ(安らぎを与え)、育みます。
けれども、思うがごとくたすけ遂げることは、きわめて有り難い(滅多にない)のです。
「浄土の慈悲」というは、(唯円坊の解釈では)我が名を呼べよという阿弥陀佛の願いが私に届いて念仏して、急に仏になって、(仏の)大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益することをいうべきです。
今生(こんじょう・今の人生)に、いかに、いとおしく不便とおもっても、ご存知のようにたすけ難(がた)ければ、この慈悲は始めからから終わりまでないのです。
そうであるから、念仏申すのみが、すえとおりたる大慈悲心なのですと、云々(親鸞聖人からお聞きしました)
慈悲という字について、「慈」は苦しみ悲しみを除き、「悲」は安らぎを与える、という意味があると習った。
これは、自分が考えた、仏の救いを表した言葉なのだと聞いた。(本当はそうじゃないと。)いろんなこれが正しいという解釈があるだろうけれど、私はそのことを聞いてなるほどと思った。いや、なるほど、どころじゃない。ああ、やっと感じ続けてきた違和感の意味がわかったと思った。
「歎異抄」を書いた唯円房も、たすけてあげたい人がいたんだろうか。
たすけてあげられなかったひとが、いたんだろうか。