『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

たがいに業縁の存在

 22時に眠気に襲われた。ここのところ3時までパソコンに向かってる事が多かったのだが、まあなんかそうだよなと思ってコンタクトを外して寝た。0:30すぎに目が覚めた。酒の酔いが覚めたのかもしれない。 

 美作騒擾は18人の真宗門徒が殺された。殺した人の中にも真宗門徒がいる。
歎異抄』第十三条に、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉がある。「しかるべき業縁がおこったら、どんなこともしてしまうのだ」。

「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいし。
また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいし。(『真宗聖典』633・634頁)

業縁の存在、一人ひとりそれぞれに背負っている業と、であうものによって、その人になる。それはそうだろうが、業縁の存在だからと、殺した人も殺された人も諦められるのだろうか。そしてそれは諦めなのだろうか。縁次第では、人を殺すかもしれない私であることはわかる。でも、だから、同じく業縁の存在だと、殺した人も殺された人も許すことが果たしてできるだろうか。

 

 明治4年8月28日太政官布告「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」は、単なる賤民制度、被差別部落の制度を廃止したに過ぎないものであり、新しいところに移し替えるあるいは差別を禁止するという意味合いは一切ない。差別的行為に対して一切を手をふれなかったもの。被差別者を差別し襲撃をすることを止めない。差別を黙認して、殺していくこと認める、放置する側面があった。布告自身が欠陥を持つ。

 

 そうであるから、この布告や布告を発令した者が問題なのだ、ということも、布告を発令した者もまた業縁の存在なのである。

 だから人間そのものに罪がある。何をしていても、殺しても殺されても、差別を黙認して、殺していくこと認める布告を発令したとしても、しなくても。人間そのものが罪を抱えて生まれてくる(佐野明弘氏)。それでもやはり腑に落ちない。これはなにか。