『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

レポート「美作騒擾」を学ぶ(一部)

・賤民廃止令

明治4(1871)年8月28日、当時の政府―太政官は、穢多・非人などの賤民制度を廃止する布告(以下「賤民廃止令」ないし「廃止令」とする)をだした。これに反対し起こった一揆、あるいはこの布告ゆえに"増長"したと見なされ、部落が直接襲われた事件、その数は西日本を中心に二十件を超えた。       

『部落(むら)を襲った一揆』上杉聰著(解放出版社)2頁

 

【解放令】えた・非人などの被差別身分を廃止し、職業の自由を認めた明治4(1871)年8月発布の太政官布告。賤称廃止令。          

広辞苑』第六版(岩波書店)471頁

 

「解放令」という呼び方は、後世の布告に対する過剰な評価が加わっているので相応しい呼び方ではない。1871年8月の太政官布告は、単なる賤民制度、被差別部落の制度を廃止したに過ぎないもので、新しいところに移し替えるあるいは差別を禁止するという意味合いはない。差別をして襲撃した等の、差別的行為に対して一切手をふれなかったもの。欠陥がある布告であり、差別を黙認して、殺していくこと認める、放置する側面があった。布告に「称ヲ廃シ」とあることから「賤称廃止令」と誤解されがちであるが、名前の改変にとどまるものではなく、大きな法制的な変革であった。

(故に、「一揆」「騒擾」が起こった。)

・「美作騒擾」

北条県(現岡山県)北部美作(みまさか)地方でおきた騒擾。1873(明治6)年5月26日夜から5日間続いた。被差別部落民18人が殺され、襲った側は死刑が15人、処罰者数2万7千人。

・なぜ起こったか―太政官布告への農民の怒りの矛先がなぜ部落民に向かうのか

加茂谷には襲われた部落(むら)が三つある。津川原は当時加茂谷最大の部落で102戸。「賤民廃止令」直後、村の長が「私たちは平等にされたので、これからどうか親しく交際してください」という文書を近村へ配るなどし、部落解放へ向かった中心の村だった。農民たちの多くは、これまで人間以下にしか思っていなかった者から「対等に付き合って」と言われると"軽蔑された"被害者意識がおこる。当時農民は士族から差別され(士族が通る時は土下座した)部落を差別することで自らの誇りを保っていた。部落民は農民が通る時土下座した。農民たちが最初に襲ったある部落に対して「これまでの穢多でけっこうです」と書いた証文を出させた。これまでの無礼への許しを乞い、いのちだけは助けてくださいと詫びる文章にまとめた。これらの証文(「詫び状」)は26ある。津川原村は抵抗し続けた。襲われた被差別部落は27カ村ある。

 

【補足】

・明治4(1871)年8月28日発布の太政官布告(『太政類典』記載)

穢多非人等ノ稱彼發候自今身分職業共平民同様タルへキ事

(穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス)

廃止令が命じたこと

一、これより直ちに、穢多・非人などの名称・制度を廃止する。

二、賤民は平民身分に加える。

三、職業は自由とする。

四、地租免除の制度を廃止する。

・「美作騒擾」1873(明治6)年5月26日夜から5日間

5月26日、村に不審な人物が来たとして、鏡野の貞永寺村に集まった約500人がその夜に一揆を起こし、近くの被差別部落を襲った。津山の県庁を目指し、五箇所の被差別部落と富豪や学校を襲い進んだ。燃え上がる家屋の炎は、辺を「さながら昼のように」照らした。

5月27日、北条県の発砲で8人が死亡。銃撃により農民4名即死。3名重症後日死亡。農民に応戦した警官一人流れ弾に当たり亡くなる。北条全県に騒擾が拡大。県の出先機関とみなされた官史宅や布告の掲示場、正副戸長、学校、そして被差別部落が広く襲われ、詫び状を出さない部落の家は焼かれ、破壊されていった。

5月28日、早朝から津川原の人々と農民一揆が対立。午後4時過ぎ、農民二千人近くが怒声を挙げてすざまじい勢いで102戸の集落に襲いかかる。放火され山中に逃げていく人々を追いかけ、また尾根を駆け上がり人々めがけて岩を落とした。夜8時頃まで山中で探索と殺害を続け、死者4人と重傷者十数人。密集した人家からでる炎と炎は寄り集まって渦となり、裏山の高さにまで燃えあがった。農民の多くは帰宅したが、山中を夜通し追跡したものもいた。明け方に岩陰に隠れていた5人が彼らに発見され、1歳の赤子(満0歳)、43歳の母、9歳の女子、46歳の男性、彼が付き添う79歳の母親が殺された。

5月29日、農民に捕まった被差別部落民が賀茂川に連れられ、生かすか殺すかを判断された。村の長と息子2人をはじめ、廃止令後に"増長"したと見なされた9人が惨殺された。

・当時の記録『美作騒擾記』より

「群衆は、これ(捕らえた部落民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫(つら)ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。

それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同部落民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼(かいじん)に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕(とら)へて、背に藁束(わらたば)を縛(ばく)し、これに火を放(はな)ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり」。

「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う~頭士 倫典」 ジャーナリスト・西村 秀樹 | シリーズ・ 抗う人 (gendainoriron.jp)

 

【参考文献】

季刊現代の理論「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う~頭士 倫典」ジャーナリスト/西村秀樹

『部落(むら)を襲った一揆』上杉聰著(解放出版社)2頁

『これでわかった!部落の歴史』上杉聰著(解放出版社)190頁

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)『真宗聖典